松下昇~〈 〉闘争資料

2008-11-18

9号3頁から。{ }公判過程〔抄〕

さて、六甲を読むといった作業に寄り道していたので、「時の楔通信」を読むが開始できないままになっていた。

9号3頁から。

〈大阪〉高裁  一九八三年一〇月一一日(第四回公判)

 前回公判までの経過を、できる限りつき放して把握すると、裁判

機構が検察権力との一体化を更におしすすめつつ、被告人側が、ど

のような論理や証拠を提起しようとも、それを無視=抑圧して、年

内に控訴棄却の判決を出そうとしていることは明らかであった。こ

の方向性自体は、すでに公判開姶以来、いや闘争開始以来、明らか

であるということができ、多くの被告人は、例外的な少数を除いて、

この絶対的と感じられる壁の前で、時期のちがいはあれ屈服し、絶

望の身ぶりで武装解除するか、より魅力的に思える別の壁に転進す

るか、これは壁でなく通り過ぎる風景の一つだと自己暗示をかけて

生活にくずれ落ちるというような姿態をさらしてきた。

「裁判機構が検察権力との一体化を更におしすすめつつ、被告人側が、ど

のような論理や証拠を提起しようとも、それを無視=抑圧して」自分たちの

勝手なペースでことを運んでいく。これは裁判に限らず、対権力のどのような

運動(関係)にも見られることである。そのようなとき何をしようと結局

甲斐がないわけである。なので、いろいろな姿態を取りつつ「屈服」していく

しかない。これはただの敗北ではない。闘いというものが存在権利を持たない

ということである。闘いというものははなっから存在権利をもたない。実際、

わたしたちの社会の25年間はそのように過ぎ去った。

そうであっても権力側は必要だと思った変化は採り入れるので社会が変化していかない

わけではない。また言論の自由はあるように見えるので、全体主義だと判断するのも

難しい。

 けれども{ }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対

象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、まだ、対象化を

要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していること

を否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。従って、特定

の裁判官や検察官や各当事者を媒介して公判にかかわるとしても、

それら当事者たちの制約にのみ対処しているわけにいかない。制

約に対処していくのは、それを逆用~転倒していく場合に制約さ

れる。

 しかし考えてみると闘いとは常に、この世の常識の地平に異を唱える

ことであり、裁判のような整ったルールにおいては敗北するに

決まったものだったのではないか。

権力は一部であり大衆の暗黙の承認によってはじめて力を持つ。やってみなければわからない賭。/それでも常に彼らが勝つ賭。

私たちは転倒の可能性を手にしているはずだが、その可能性をどこで見失うのか?

「それら当事者たちの制約にのみ対処しているわけにいかない。」相手の弱点を発見しそこを突くことをしなければならないがそれに満足していると、ともするとブルジョア常識を強化し教条化してしまったりすることにもなりかねない。「それを逆用~転倒していくことができる場合だけに「制約」に対処していこう。」と松下は言う。

国家権力とはネバネバしたスライムの如きものだろうか。切り付けダメージをあたえたはずなのにネバネバしたその体液が私たちの手足にまとわりつき私たちは動けなくなってしまう。

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