2008-11-16
■ 置き換えが可能な部分を発見することの効果!
「六甲」の写経が、第3章のp77まできました。
任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体
個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。
花とは、萼−花びら−雄しべ−雌しべといった一つまたはn個の要素を構造化したものである。〈 〉を付けるとはそれを強調しそこに意識を集中すること。微小な差異を示している無数の花があったとき、萼−花びら−雄しべ−雌しべのどの項目に注目するかによって違った分類が出現する。私たちは常識的分類−リンネによる分類−現在の植物学による分類、がそれぞれ差異を持つことを否定しないが、後者は前者を洗練されたものという理解により基本的に同一化して受け取っている。*1しかし世界とはそうしたものであろうか。一つの花びらが、スズラン〈と呼ばれることを拒否しなければならない根拠〉が存在するとき、そうした世界は消滅する。萼−花びら−雄しべ−雌しべのどの項目に注目するかによって、異なった時間=空間の律動の境界を往還することができる。
構造主義/ポスト構造主義が流行するのは日本では1970年代に入ってからですから、この文はその影響を受けている訳ではありませんが、思想的方法的な親近性は大きいと言えます。どう読んだらいいのか。むりやり注釈をつけてみました。