どのような表現にも重心に相当する個所があり、いくつかの表現の集合である本ないし
パンフレットにも重心に相当する個所がある。しかも、それぞれの重心は表現主体の意図
に応じて位置づけられるとは限らず、位置のありかに気付くことが困難な場合さえ多い。
勿論、この重心の存在は、表現したり読んだりする場合に不可欠の条件であるとはいえな
いのであるが、表現過程や表現内容が、たんに表現したり読んだりする関係のレベルを超
えて具体化している以上、ある表現の出現は、現在の段階で自明と認識されているレベル
を超えて意味づけられうるはずであり、この意味づけに際して前記の重心の位置づけは、
一つの大きい測定基軸になりうるであろう。
こういうことを考えたのは、概念集9は1~8の次の周期にある特性からだけでは了解
しがたい出現の仕方をしていると感じるからである。仮装的に別のいい方をしてみると、
概念集9は、松下の〈死〉後に、刊行委が残されたメモやフロッピーディスクを整理して
まず目についたフロッピーディスクからの表現を開示する位相に対応している。それぞれ
の表現は、いくつかの領域ですでに発表されているものではあるが、統一的に構成してみ
ると、個々の表現だけを読むのとは異なる意味も発生してくるようであり、しかもどのよ
うに異なるかが充分には把握しえない感触があり、それが前記の〈重心〉の発想に交差し
ているのである。
もしかしたら、概念集9の〈重心〉は可視的なページの次元からはみ出したところに位
置し、生成し続けているのかも知れないことは、まだ殆ど手を触れていないメモ群や存在
の軌跡からも想像できるし、それをこそ把握し提出すべきではあるが、しかし、その方向
への手掛かりを、たとえ〈重心〉から遠い余技の領域からであるとしても、 〈重心〉の概
念と共に始めて提出することに重要な意味がないとはいえないであろう。生と死の、表現
と未表現の〈重心〉を、この厳しい情況の中で真に潜り抜けていこうとする人々の共闘を
得つつ発見し応用していきたい。
~一九九三年十一月~
刊行委 気付 松下 昇
(概念集9 p1)