松下昇
河村隆二氏の歌集「不条理」(一九七二年七月)を久しぶりに読み返し、次の三つの視点から批評しようと考えた。
第一の視点は、一九七一年七月に父子で外出中に急死した四歳の行君を過去形ではなく現在ないし未来形で追悼するために再読し、私たちの生き方に応用することである。これは、すでに私が一九七六年四月に六歳で永遠に巡礼した松下未宇の今も風の中で微かに響く〈うた〉を聞く時の方法でもあり、一九八九年末に倒れた、私と同年齢の菅谷規矩雄に関する追悼集の刊行においても具体化してきた。この視点で歌集をめくると、七一年一一月の国際反戦デーに大学横の国道16号線バリケードで戦った学生を追って作者が授業中の教室に乱入した機動隊員を制止して、作者も共に逮捕された経過を背景とする
「たおれし子にけりつける官憲にだきつきて 再びつながれ留置場にゆく」(41ぺージ)
「一人にて座す外みえず思いだす ただ死せし子のこと涙はやまず」(同前)
が最も印象的であり、作者にとって前歌の〈子〉が後歌の〈子〉の葬儀にかけつけてくれた関係にあることが別の歌から判るが、それ以上に双方の〈子〉は同位相の存在として把握されている。なお、「再びつながれ」は、六○年安保闘争いらい十周年の七○年六月の東京のデモに久し振りに参加して逮捕され、今は二度目であることを意味する。最初の逮捕も学生をかばって公務執行妨害とされた(註-いずれも不起訴)。その後、七二年になって大学当局が学長=岡本 正の独裁下に発布した、学内でのへルメット看用やアジテーションなどの行為をした者を現認した段階で自動的に除籍処分することを含む、驚くべき「緊急処置要綱」(表現集・続篇23ぺージに転載されている。)による学生への処分に抗議するために河村氏は授業ボイコット宣言をおこない、(反省文作成を業務命令とする)自宅研修期間をへて、反省せずに教学権の確認を裁判所に提訴した(註-裁いてもらうというよりは、問題点をより広い公開の場に提出し、波及効果の日常的な現場への応用に力点がおかれた。)ことを実質的理由として解雇処分が強行される。処分取消の請求は前記の裁判に併合され、学内を含む闘争の主軸となって持続していくのであるが、この解雇処分の前段階に次のような歌がある。
「半年間自宅研修処分にて 子の写し絵の前音楽を聞き寝」(51ページ)
「子の逝きしに泣きしくれしし教え子は 教授会の黒板に除籍と書かれり」(50ぺージ)
仏壇にかざった写真の子どもや、名前を黒板に書かれた学生の方が、具体的に目の前に現われる人々よりも、はるかに〈現実的〉に作者と共に生きていることが判る。このような〈現実的〉な領域(註-事実性ではなく深さ)に気付き、支えられた後に、はじめて人は本格的な後戻りすることのない戦いに歩み出るのである。やわらかい心をたずさえて…
「狂人と云われつつ云うおのが声 何のため云うまよいて目を閉ず」(48ぺージ)
これがロックアウト体制を大衆団交的状況で糾弾している瞬間の歌であることに注目したい。
第二の視点は、第一でとり上げた作品の系列と対照的に、科学者である前に本来的な遊行詩人である作者の感性が、関係の固さや重苦しさから一瞬とき放たれて呼吸している歌の発見で、夜学に通った青春期を想起した歌の中にもいくつかあるが、私としては、まず
「パパー」「どうして行(こう)たん飛べないの」「羽がないから」と答えしときあり(39ページ)
を上げたい。五七五七七の区分域を超え、かつ包括して、父と子の、さり気ない会話が、いま振り返る時に帯びる意味さえも止揚して見事にとらえられている。この歌に限らず、河村氏の歌ほ、微妙な〈字あまり〉の効果によって生命化していることが多いが、前記の場合は群を抜いて宙空に漂っており、作者と死児の〈天使〉性のみが可能にしたわざであるといえよう。この系列の作品を私たちにもたらしただけでも、私は「あれよりは職業はととわれても 酒のむ席では歌人と答えぬ」(8ぺージ)という作者の悲哀をこめた自負を肯定したい思いがある。とはいえ、「歌よみと一たび云われたし 希望はかなえ子に残す語はなし」(40ぺージ)に出会うと暗然としてしまうのではあるが。しかし、情況的位置からだけではなく、河村氏は、これまでにない位相の〈歌よみ〉として出現し、〈語〉を無数の〈子〉に残している。なお、〈歌よみ〉は職業ではなく、全ての人が内包する〈状態〉であると私が考えていることも強調しておこう。〈歌〉おうとする〈状態〉が既成の職業概念をはみだしてしまうほどに不条理と格闘すること、それは〈革命〉の一つの指標であり根拠ではないのか。法廷で職業を問われる時いつも私の心の中に生起するのはこの〈歌〉であった。そして、判決文などには「被告人の職業は不明」と記載された。
第三の視点は、いま企画中のパンフに河村氏の歌集についての批評を掲載する意味を提起するために読み、批評することである。このパンフには私の提案により、これまでの救援通信の全バックナンバーが再録予定であり、資料にこめられた各段階ごとのエネルギーの活用としても大きい価値をもつが、読み返してみて、河村氏の歌集に関する記述や批評が全くないことに気付く。他の被処分者や支援者の裁判へのかかわり以外の活動についてもそうである。日大の小林氏などの場合はある程度の記事も掲載されているとはいえ、逆に裁判過程との内的関連が判りにくい。あえてのべると、通信と歌集(論)のズレの放置は、各人がどのような自己史の必然から闘争や救援活動に参加しているのか、裁判過程以外の場でかかえる矛盾や困難はなにか、について(無)意識的に目を閉じてきたことの象徴である。
たしかに、教員救援連絡会の原則?であるらしい、裁判費用のカンパ集めに重点をおくやり方は一定の合理的な根拠をもっていたし、それ故に空中分解せずに持続してきたともいえるであろうが、河村氏の歌集を議論や記事のテーマとしてとりあげえなかった過程は十数年の会および各人の情況把握の限界を暗示している。私自身も、九○年二月の編集会議に参加して河村氏の六○年安保闘争以来の友人である山浦氏から歌集についての批評の必要性を提起されるまで、意識の底にあった、歌集をよみ返し批評したい、という思いを具体化するに至らなかった。この意味から、河村氏の処分や生き方の深部を最もよく理解し、ある場合には被処分者よりも大きい困難を黙って支えたであろう山浦氏に感謝したい。また、自己史を対象化する試みの過程で、河村氏の代理人弁護士に歌集を引用しつつ本人尋問(河村証言)をおこなうことの重要性を提案し、八六年八月の控訴審の法廷で実現させた、南山大学(名古屋)の闘争で起訴された学生の一人・竹中さんに対しても。
最後に、短歌という表現形式の情況性についてのべたい。「文芸」90年秋期号に、大学闘争の渦中を学生活動家としてくぐった道浦母都子が、連合赤軍の坂口弘が八九年末いらい新聞に投稿し始めた短歌について論じている。かの女は、坂口氏が死刑判決という重圧に耐えつつ、獄中記や手記でなく短歌という表現形式をえらんで沈黙を越えようとしている点に、うたよみの一人として関心をよせつつ同時に、これまでの作品内容からは何かがちがうという印象をうけたとのべ、もっと厳しく、ぎりぎりの自分をあの小さな詩型に叩きこんでほしい、と要望している。
私も基本的に同意するが、次の点を補充しておく。河村氏も歌集のあとがきで、歌心も文学的素養もない自分は、短歌をつくることによってのみ心を癒し、人生を省りみることができたと記し、悲しい時や苦しい時は歌をつくって思いきり感情をたたきつけることを読者にすすめている。しかし、偏見を帯びることを怖れずにいえぱ、短歌という表現形式への情念のそそぎこみやすさは、日本語の構成やリズムや語感と密接にかかわっているはずであり、短歌の作者たちがこの形式を選ぶというより、この形式(の向こうにある日本的な何か)が作者たちをつかむ力の方が強いと考えてみたい。代々の天皇が教養としての短歌を身につけて一定のレベルに達しようとはしても、他の表現形式を忌避するのは重大な示唆を投げかける。ただし、私はこの形式をたんに否定しているのではない。形式に拘束される時の抵抗感を逆用して〈字あまり〉の効果をつくりだしている例は河村氏の場合に指摘したし、短かさ自体が鋭い武器にもなりうるのは坂口氏の歌で判る。私がいいたいのは、自分をこのように表現させる力を見極めつつ表現することの必要性であり、それを可能にする条件の確認である。比喩的にいえば、〈日本人〉の情念は、不条理と戦う時ないしそれ以前にすでに無意識のうちに、短歌という〈獄〉にとらえられやすいのではないか。しかし、現実の獄にある人が〈獄〉の信奉者であるとは限らず、むしろ最深部からの爆破~解体をのぞみ、かつ武器として応用しつつ占拠する最短距雛に位置してもいるのである。この〈獄〉は短歌形式のみならず表現ジャンル一般、さらには発想~存在様式の総体の拘束性についてもいえるし、いわねばならないだろう。
私は坂口氏が短歌形式との格闘の度合を表現の根拠の変革と最もよく対応させうる場に存在している、と考えており、今後も注目し続けたい。より深く短歌形式ふうに食い入るか、短歌形式を内部から食い破るか…。いずれの場合にも、七二年一月から二月(註)にかけて極寒の山中で総括要求を受けて柱に縛りつけられた状態のまま、胎児と共に死んでいく直前に女性兵士・金子みちよの口許からもれた最後の表現が「ジャンケンポンよ、あいこでしょ…」という歌であったという怖るべき啓示に迫りうる質をめざしてほしい。私も別の回路から同じ質をめざしていく。
註…六九年以来の闘争の最も突出~純枠化した形態の一つでもある連合赤軍の〈総括=粛清〉の実態が権力~マスコミの情報操作のレベルで明らかにされることになる、この時期に、私は情況への〈子守歌〉かつ〈革命歌〉としての〈 〉焼きをしていた。(概念集1参照)
大学教員救援連絡会編『救援通信最終号-三大学教員処分撤回闘争を終えて-』(91年5月)p58~60の全文。
『概念集・4』~1991・1~ p12~14に転載された。