水俣病への接近

上の文章を書いたきっかけは『下下戦記』を読んだからですが、さらにそのきっかけはスワンさんが下記のような一連の文章にあります。量が多いのできちんと読めていないのですが。あらためて敬意を表します。

ちゃんと読まなくては。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041121#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041015#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041014#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613

村野タマノの叫び

67年には、公害対策基本法が制定する。

その翌年、初めて、厚生大臣が水俣を訪問する。

新潟水俣病の発生を背景に、1968年(9月22日)、熊本県天草郡出身の園田直は、厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞った。孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。(パネルより)

なかでも6/13の上記の部分は印象的でした。

1945年から日本は民主主義国家になったと信じている人が多い。(小学校でそう習うから)戦前の日本だって今と同じくらい民主主義だった、ということは必ずしも無茶な意見ではない。いわゆる15年戦争において国内が危機に陥ったのは最後の2年くらいでそれまでは大衆やプチブルは(一定の範囲内で)自由と消費を謳歌していたのだ。今の日本が民主主義なんだというタテマエを皆が疑わないのはその方が楽だからにすぎない。村野氏の行為には何の錯誤もない。*1

*1:いろいろ問題はあるがわたしの文は尻切れトンボで終わる。

壁のごとし

今日はちょっと酔っぱらっていたので、本屋に行って文芸誌なんかかったことないのに、「文学アジア」とかいう特集につられて『新潮』200501月号を買ってしまった。

ダルウィーシュ*1の「壁のごとし」という詩が載っている。ダルウィーシュはパレスチナの詩人なのでこの壁とは、イスラエルが建設している隔離壁(アパルトヘイト・ウォール)のことだろうか。そうであるとしてもそれは喩の彼方に隠され不分明である。

第3連はこんな感じ。天国にすでに入ったのか、すべては白である。

究極の天体のなかで、わたしはなるべきものとなるだろう。

すべてが白い。海は白い雲のうえで白い。

絶対の白い空にあって、白とは無だ。

わたしはいたのだった、いなかったのだった。

白い永遠を抜けてひとり彷徨い

時間前に到着する。

「地上では何をしてたのか?」と、

わたしに尋ねようとする天使はひとりもいなかった。

祝福された魂の賛美歌も、罪人の嘆きも聞かなかった。

わたしは白のなかでひとり、わたしはひとりだ。

パレスチナの現実では行きたいところに行く自由すらないから、死んで自由になるのか

わたしはある日、なりたいものとなるだろう。

わたしはある日、鳥となって、自分の無から存在を引っ掴むだろう。

というわけで、雲を掴むよう以上に難解。イスラム神秘主義の伝統に棹さしているのか。しかも詩としてはかなり長い、17頁。

終始、生と死の狭間の何もない空間を歩みながら、歴史と生の堆積の厚みを感じている。・・・もっと、彼の詩とその解説を読みたいと思った。

*1:この雑誌、四方田犬彦の紹介ではダルウィシュ

からゆきさん

 id:noharra:20050115#p3 で引用した歩いている島田髷の女たちは、からゆきさんとも呼ばれるものたちかな、と思った。

 1972年に『サンダカン八番娼館』 山崎朋子 筑摩書房がベストセラーになってから、一時良く聞いた言葉だが、そう言えば最近全然聞かない。*1

意味は違うのだが、従軍慰安婦という言葉が良く聞かれるようになったのと反比例している。

 下記のサイトがあり、「 異国の日本人墓地の小さな墓石の下で眠るからゆきさんをたずね歩き回ったひとりの男が、弔いの気持ちもこめて開いたのがこの小部屋です。」とあり、丁寧な造りに好感が持てる。

http://www.karayukisan.jp/index.html

からゆきさんの小部屋

 「分布」という世界地図を見ると「このようにほぼ世界中に広がっていった」ことがよく分かる。「からゆきさんの数は、20万とも30万ともいわれています。」「日本人の影すら見当たらない地域にも、すでに100年前にからゆきさんたちは足跡を印したのです。」

http://www.karayukisan.jp/no3/index.html

Q1:いつのことなの?

 江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃までの話です。

明治以降、日本はがむしゃらに資本主義化していこうとするのですが、はじめ外貨不足に苦しみました。そのときの彼女たちの貢献は決して無視できるほどではなかった。

 また、大正四年、全東南アジアの華僑が、日貨ボイコット運動を始め、日本国家の外貨獲得策は危機に瀕した。この時、日本国家は、暗黙のうちに『からゆきさん』たちの仕事を奨励し、彼女らの稼いだ外貨によってようやく危機を脱出した。

http://tadaokik.hiho.jp/borneo/16.htm ボルネオ紀行

一時期は日本の外貨獲得に貢献したほどだったそうですが、日本の日露戦争での勝利、第1次世界大戦での戦勝国としての地位向上、国力増強と経済進出の過程で「一等国日本の恥」とみなされて取り締まりが行われ、シンガポールをはじめに各地から1920年頃を境に次第に姿を消していきました。

http://www.f.waseda.jp/kanaike/class/gender/gender2004_02_10.htm  2004年度文学とジェンダー後期第十回

 マルチチュードなんて言葉も最近はあるが、定義はなんだっけ? 上品な人たちがなるべく見てみない振りをしているうちに10年、20年経つと社会の最下層に生きる女たちの国籍はすっかり入れ替わっていたりする、というようなこともあるのでは、というようなことに、わたしの問題意識はある。

反・従軍慰安婦言説の根拠には、娼婦は必要悪だとする、娼婦存在に対する絶対的差別意識がある。

*1:山崎朋子、森崎和江、村岡伊平治、は東南アジアのからゆきさんをクローズアップしたが、シベリア出兵から満州事変までの、満州周辺での女性たちの存在も大きい。

「アウシュビッツ」なしで日本はやっていけるのか?

id:clawさんの発言より

・・・過去の侵略戦争と植民地支配について、南京大虐殺について、従軍慰安婦制度について、日本の為政者は「和解のための言葉」を持っていない。別にキレイゴトでなくていいのだ。「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないようにして、今後のショウバイに支障の出ないようにするか」という打算さえあれば十分である。ところが実際には打算も戦略も存在しない、独自の戦略がないから「自分自身の言葉、あるいは少なくともオリジナリティを感じさせる言葉」もない。

・・・なぜそうであったかについて考えるのもよいが、とりあえず一つの参考すべき例として、かつては共にファシズムの枢軸をなしていたドイツ、その政治家の言葉に注目してみよう。重要なことは「過去への反省」うんぬんではなく、「これからの長期戦略を踏まえて、今どうする、そのために何を語るか」ということにある。

http://d.hatena.ne.jp/claw/20050128

▼CLick for Anti War 最新メモ – オトナになる方法

日本は、中国、その他のアジア諸国の民衆に対し「大東亜戦争」において大きな加害を行った。

 謝罪は行われたか。「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたこと」について1994年村山首相は、反省とおわびをした。これでは不充分だと思う。わたしたちは「アジアの大義」を掲げて世界大戦を戦った。それなのにゲリラでもないアジア民衆の女性・子どもをレイプしまわっていた。女性国際戦犯法廷で64名の被害証言女性たちなどによって明らかにされたことから判断すると、性奴隷、レイプといった面だけから考えても、日本軍の行為はアジア人蔑視という根本を持っていたといえる。「アジアの大義」を掲げながら、レイプしまわっていたことは、絶対的矛盾である。誇りある者なら深く恥じる、という場所から動くべきではない。

clawさんの意見は、倫理とは別の見地からのものである。罪が罪であることをアジア諸国が忘れてくれる、あるいは無理矢理忘れさせることができるのならそれでも良いかも知れないが、それができないのなら、「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないように」するための「反省のための言葉」をもたなければどうしようもないんじゃないですか、と言っている。 安倍某をはじめとする人々は一見勇ましそうだが、勇ましそうな言葉を吐くことで国内的にだけ自らを慰めているだけだ。恥ずかしいだけなら良いが、国益を損ねているのではないか。

ナターシャさんからの手紙

松下さんへ

おかわりありませんか?今こうべしの方は

不幸こう人が沢山いますね,本当に可哀相で

気の毒だと思っていますがその時そとにいるなら

お握りくらい貧しい人達にもっていってあげたいと

思っていますが今の私には祈る事しかできません。

本当にごめんなさい。

そして突然お手紙とバプレットが来てびっくりしました

ので私は読んで見ましたが ところを理解する事が

できませんでしたが 青木さんにしらせて聞きました。

へんじがおそくなり申し分けありません。 なぜなら私の

日本語はまだまだ勉強ぶそくできちんとした日本語

をつかう事ができませんが 松下さんは一生懸命

又 タイの女性のもんだいをめっしんに考えて下さって

いる事にとても感動し嬉しく と思っていました。

今の私にはまだまだ勉強ぶそくでわからない

ところもありましたがもっともっと勉強 いつの日か

お手紙のないようをすべて理解する事ができると

思います。

それから 私の子供達のことですが私思うのは

うそおはいつかはばれると思いますが本当の事を

子供達に言いたいけれども 今子供達はまだ

小さいすぎるので今の事を言ってもわからない

と思います。ですから 子供達に大きくなってから

必ず自分の口で子供達に話します。

私は悪い事をしてしまい 申し分けなかった事

と思っています。リサさんの事とリサさんのお子

さんの事を私の心の中に一生忘れません

がこれから子供達の為にと貧しい人達の

為につよくいきて行きたいと思っています。

又 辛く淋しい生活の中で松下さんと

ボランティアの皆様の温かな

励まし 私が一番愛する子供達連れて

面会に来て下さったり勇気つけられました。

松下さんと皆様の応援が会った

からこそ私は頑張ってこれました。

心から感謝をしています。

誠にありがとうございました。まだ寒い

日がつづきますが風邪などひかないように

お体にお気をつけて下さい。日本語はとても

むずかしいので字のまちがいや言葉のあやまりは

ゆるしてください。又80円切手どうもありがとうござい

ました。

          ナータシャ・サミッタマーン 1995.2.22

原本は、ここ。

【G12-15】

p15 『概念集・12』~1995・3~

所得税の確定申告はお早めに

配偶者控除は全廃すべきだと思います。これはフェミニズムというより本来労働運動の問題でしょうが。これがあるためにパート労働者の労働単価が低く抑えられ労働賃金全体に悪影響を及ぼしているのは自明です。この問題についてはどのように思われますか?(ちなみに私は男性です。)(野原燐)

議論は継続する

# hal44 『長くなったので、Swan_Slabさんへの返事此方に書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050322』 (2005/03/22 19:59)

# index_home 『swan_slabさんの「邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか」について、私のお答えを申せば「観念しえない」と思います。「愛国心」そのものへの疑問を持つべきかと。hal44さんの文章も読ませていただきましたが、同じようなことを書いていらっしゃると解釈しました(違っていたら申し訳ありません)

昔からよくいわれることに「愛国心」にナショナリズムとパトリオティシズムの混同されるといわれますが、「愛国心」を大衆に求める方々は依然聞く耳を持っていないようにも思えますし、逆にそうしなければ「愛国心」を植えつけられない事情がおありなのだと思っています。』 (2005/03/22 21:15)

# swan_slab 『え~と、hal44さんのところに返信を書きながら思ったんですが、公共の福祉という概念は、戦後憲法においては、明治憲法下の外在的制約的ニュアンスを取り除こう、さらには別の言葉で解釈しよう、という動きが憲法学では強かったと思いますが、こと愛国心については、案外使える概念かもしれないと感じました。

つまり、

>「愛国心」を大衆に求める>index_homeさん

というのは、つまるところ、公共の福祉に完全に合致した生き方の強制と言い換えることができるのではないかと。そう考えたとたん、最近私の+駝鳥+ http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050316についたjuluxさんのコメントの意味が氷解していきました。【合意済みの移転を放置し続けた沖縄県は猛省すべきです。また民主的手続きによって決定された移転に反対・妨害活動を行う運動家は民主主義の敵】と述べた彼/ 彼女の背後にある思想がわかるような気がするのです。』 (2005/03/22 23:33)

# N・B 『 お久しぶりです、野原さん、以前の書き込みではひねくれてかつマイナーな書き込みをしてすいません、いくつか感想を書きます、「愛国心」の位置は国によって違うようですね、イギリスとフランスの違いは決して理論だけには還元できないようですし。ロックやバークのような多元主義はイギリスの社会の安定の実質的確保を保証する装置の存在(ロックの場合はむしろそれを作り上げる過程に関与しましたが)という前提があるのではないかと思います、バークにとってアメリカとインドははっきり違うのではないでしょうか。

 私が思ったのはこの「実質的確保」という問題が現在の「日本」の不安と結びついているのではないかということです。hal44さんはそれにはやや否定的なようですが、私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。

 

 とするとまず、私たちが共有していることといないことを分けることが必要ではないかと思います。spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。彼の発言は正直ななものだと思います。ナシオとパトリを区別することは確かに必要ですが、彼のように「自明の前提」の機能をなにがおっているかに注意しないとこの区別は意味を成さないのではないでしょうか。スワンさんが、juluxさんのコメントの意味を理解できなかった(むしろそのことに私は驚きました)のもネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。

 私は「実質的確保」の確認の機能をなにが担っているからみると、古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、パトリオティズムは実はそのような「機能」の一側面ではないかと思います。そのような「機能」は私たちにもある程度必要ですから、逆に自らがそのような「機能」を何処に置いているかその危険に対してどうやって自覚するかということが必要だと思います。おそらく「実質的正義」

という視点がここで必要になるのでないかと思います。そうなると、「実質的正義」の内実の検討が必要になります。

 私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。(ちなみにネットにあふれる「ジャイアニズム」の問題はこのような前提の違いが大きいと思います、自らの二重基準に気づかない、もしくはそれを当然と思うのはある程度これでわかるのではと思います、特に不安に圧倒されていればそうだと思います)

 以上延々と述べましたが、現在の私たちと歴史をつなぐあり方としての振舞い方としてと(あえて使いますが)「自虐的」ナショナリストというあり方も可能なのではないでしょうか?「日本」という前提を与えられてしまったものとして自らを見直すことが、唯一の「正しい方法」が存在しない以上必要だと思います、野原さんの立場はそこに近いと思うのはですがいかがでしょう。なお、「自虐的」という位置づけの根拠は先ほど述べた「実質的正義」=「モラル」にあります、この違いが「自虐的」とそうでないものを分けると思います。

また長々と書き込み失礼しました。』 (2005/03/23 06:38)

3/22から23日にも、議論は継続しています。

N・Bさんも書き込みありがとう。

私の方は月曜日から(頭が)不調で論点整理もうまくできません。

君が代の強制は教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害する

 この論点についての反対派の代表的意見として東京弁護士会のものを掲載する。いまさらですが。

 東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/toukyou-benngosikai-ikenn.htm「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見

3 教育の場における「国旗・国歌」の取り扱いと、思想良心の自由への配慮の必要性

(1) 「君が代」・「日の丸」には、戦前の軍国主義国家における歴史的な経緯があり、国民主権という憲法の基本原則にはふさわしくないとの信条を持つ国民は少なくない。かかる意味で、「君が代」の斉唱を行なうか否か、「日の丸」を掲揚するか否かはまさに個人の思想良心の自由にかかわることである。

  日本弁護士連合会も、1999年の「国旗・国歌法」の国会上程に対して、会長声明で、「『日の丸』『君が代』は・・過去の忌まわしい戦争を想起させ、被害を受けた諸国民に対する配慮の面からも国際協調を基本とする現行憲法に相応しくないと指摘する声も少なくない。」、「『君が代』の歌詞は国民主権という憲法の基本原則に相応しくないとする意見があることも事実である。」、「政府は、法案は『日の丸』の掲揚、『君が代』の斉唱を強制するものではないと説明している。しかし国旗・国歌が尊重されるのは、国民的心情によるものであるべきで、法制によって強制の傾向が強まることは問題である。」、「今回の法案上程は、国民の間における混乱を持ち込みかねないものであり、あまりに性急と言わねばならない」として、国旗国歌法の制定に伴い、その掲揚・斉唱の強制の傾向が強まって、思想良心の自由を侵害する事態を懸念していた(1999年7月14日)。

(2) 学習指導要領においては、1989年以来、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱「するよう指導するものとする」とされている。しかし、学習指導要領は、「児童・生徒に対する教育をつかさどる」教師が教育を行うに当たっての大綱的基準を定めたものであり、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」ものであることに照らし、学習指導要領の内容が「教師に対し一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような」ものであってはならないとされている(1976年5月21日旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決(以下「旭川学テ判決」という))。ましてや、子ども達が学習するに際して、学習指導要領により学習内容を強制されることなどあり得ないことである。そのため、これまでは、成長発達の途上にあり、思想良心の形成途上にある子どもに対し、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱することを強制することが許容されるものとは考えられてこなかった。

(3) このような事情から、1999年の「国旗・国歌法」の制定に際しても、これを審議した国会において、当時の小渕内閣総理大臣は、「国民に対して強制することはない」旨答弁し、さらに、児童生徒に対する「国旗・国歌」の指導について「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。(1997年7月21日衆議院内閣委員会内閣総理大臣・小渕恵三)」と述べていた。

  また、起立をしなかった児童生徒がいた場合の指導のあり方に関し、国会審議の中で「何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならない (1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会政府委員)」と答弁されていた。

  「国旗・国歌法」制定の際には、「学校における『国旗・国歌』の指導は内心にわたって強制するものではない」し、「学習指導要領は、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」旨が、政府によって繰り返し確認されていたのである。

(4) そもそも、学校は、子どもにとって人格の完成をめざして学習し、成長発達する権利を充足する主要な場なのであり、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」(旭川学テ判決)のであるから、学校において学習指導要領に基づいてなされる、「国旗」の掲揚・「国歌」の斉唱に関する指導に当たっては、それが、思想良心の形成途上にある子ども達への強制にわたらないような条件を確保する必要がある。

  そのためには、学校において日常的に思想良心の自由が確保されている実態を経験できることが必要であるとともに、児童生徒にたいし、事前に思想良心の自由を説明し、「国歌」斉唱時に「国旗」に向かって起立しない自由があることを説明し、起立しない自由を選択しても不利益を受けないことを説明し、そのような不利益を被ることがない状況を確保するなどの教育指導上の配慮が不可欠であると考えられる。

  現在、わが国でも多民族・多文化共生が求められる社会になっており、様々な国籍や文化・宗教の子ども達が、ともに学んでいるという学校の現状がある。「国旗・国歌」の指導に際しては、こうした外国の子ども達が自己の文化を享有し自己の宗教を信仰する権利への配慮の観点からも、上記の説明は重要である。

 さらに、教育は、教員と児童生徒の信頼関係において行われる。教員が児童生徒にたいして「国旗・国歌」への起立斉唱を強要することは、起立斉唱したくない児童生徒との信頼関係を損なわせることとなり、児童生徒の信頼できる教員から教育を受ける権利をも侵害することになる。

風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

JR西日本は何のために戦っているのか?

その路線(福知山線)は阪急電鉄と競合している(梅田-宝塚間)。というかわたしのような昔の人間にとっては阪急のイメージの方がかなり勝っている。これはJRの関係者にとって不愉快な事態だろう。だとしてもJRはなぜ勝ちたいのか?株主の利益のためか。

 率直に言って、あまり意味がないことに近視眼的心情を燃やしているのではと思う。鉄道は利用者の為にある。JRは勝とうとするために無駄なエネルギーを使うべきではない。