noharra 『中道右派さん

>>>アメリカ軍人もハワイで第二次大戦中に軍用慰安所を設置したそうですね。相手によっては、未来永劫無知カードを突きつけてくるでしょう。私はしませんが。

--無関係な例が2行目に出てくるのが議論に負けている証拠。

>>>>中道右派さんは現在の米兵レイプを批判し、グアンタナモ基地での人権侵害、イラク占領軍の暴虐などを糾弾する立場に立つということですね。大変結構!

そのとおり。<<<

--大変結構!

>>>なぜこのような分かりにくい説明がはびこったかを、時系列に従って説明していくと、吉見氏の研究者としての不誠実さが浮き彫りになっていきますから。

--根拠を提示しない中傷。

>>>過去の日本の不道徳を犯罪と主張するのは結構ですが、ご自分の手法の不道徳さとも真摯に向き合うべきでしょうね。

--ですから「ご自分の手法の不道徳さ」って何ですか?根拠を提示しない中傷。

>>>八紘一宇の主張に瑕疵があったのは、誠に残念なことです。

私は、亜細亜女性基金には、道徳的責任を感じて、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただきました。

---八紘一宇の主張に瑕疵があったかどうかは今問題にしていません。

太平洋戦争の初期に日本は広大な版図を手に入れた。「日本の成功は軍事的なものというより政治的なものであってことに注目しよう」とミヤーズという人は言っているそうです。「この日本の成功を支えたものは、アジアと南洋の人々の受動的なもしくは能動的な協力だった」と。p349『神聖国家日本とアジア』こういう話が好きなんでしょう。好きなのは良いのです。問題は膨大な被占領アジア人との日本人の関係、それを支えた思想です。アジア人に武器を与え彼らが独立の主体として強くなることを心から希望した人も少数ながらいました。1942年からマニラで活動した望月重信中尉がその例です。しかし彼は少数派として死んでいったに過ぎません。日本軍はフィリピンに独立を与える気など毛頭なくその行動はアジア人蔑視に貫かれていたからです。その顕著な例がフィリピン人「慰安婦」たちですね。フィリピンの場合は「もはや慰安婦ともいえないような」拉致~監禁~継続強姦の例が非常に多いのです。

---あなたは「レイシスト」という言葉に反応しているようだが、問題は「中道右派さん」にはない。大東亜共栄という思想が、アジア連帯なのは表面だけでその実体は「日本は欧米並みに偉い」「日本は神国だから偉い」というアジア人蔑視そのものであったという事実。しかもそれだけならまだしも“なかった派”は21世紀にもなってその〈恥ずかしさ〉を拡大再上演しているのですからもう存在自体が恥ずかしい!

>>>Q3-2:印象操作やレッテル張りをするなら、もっと正確に、売春婦派と呼んではいかがか?性奴隷派の野原さん。という提案です。

---売春婦と呼ぶための条件は、

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070321#p10 の第三項にも明示しています。その条件をクリアーしていることを立証してください。

>>>Q4-2:外国人の妻と家事労働を分担している事実・・・レイシストという名誉毀損に対する反証。

あなたは日常生活において外国人差別ではなくその反対を実施されているかどうかは論点ではありません。

多くの元慰安婦たちの証言に向き合ったとき、あまりためらいもなくその真実性を否定できるあなたの根性は一体何なんでしょう。それがレイシズムでないとすれば。』(2007/03/22 07:11)

* noharra 『(追記)--フィリピンの場合は「もはや慰安婦ともいえないような」拉致~監禁~継続強姦の例が非常に多いのです。--だいぶ前に図書館で借りて読んだ「ある日本軍「慰安婦」の回想 ―― フィリピンの現代史を生きて ――」

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0000690.html

からもそうした印象を受けました。アジア連帯に興味があるなら一度読んでみてください。』(2007/03/22 07:17)

真実や静止状態それ自体が解放的である訳ではない。

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』5600円がベストセラーに、

なりつつあるらしい。うちの近くの三つの大きな本屋では売り切れのようで、より大きな都市に行ったらあったので思わず買ってしまった。

やっと200頁ほど読んだが、もちろん資本論に比肩するほどの本ではない。

だけど、20年前のベストセラー『構造と力』に比べると5倍ぐらい役に立つ、

かどうかは分からないが、思わずそう言いたくなるような図太い力がある。

『構造と力』は結局のところオタクのための本でしかなく、『存在論的、郵便的』なんか

恥ずかしいほどそうなのに比べて。

 分かりやすい。例えば、貧者、貧乏人といったことばは誰にでも分かる。

「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」なのである、貧者は。

とこの本は語る。p205

つまり、「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」というフレーズは

、一部のインテリ、ポストモダン業界のジャルゴンにすぎない。だけど、

貧者、貧乏人という言葉はそうじゃない。もう一つ「プロレタリアート」という言葉がある。

これは庶民の言葉と特殊インテリの言葉のあいだ、普通の(イデオロギー)用語

である。このように、この本は言葉の生きるいくつかの地層を勇敢に横断し、

言葉と思想を開いていこうとしている。

次の例。 ポストモダニズムって「支配的な語りへの攻撃と、真実に対する批判」

でないこともないらしい。でもそれってどういうことだろう。

「たとえば、エルサルバドル内戦の終結時に結成された真実究明委員会の使命や、

あるいはラテンアメリカや南アフリカで一独裁以後や全体主義体制以後に確立された

同様の制度の使命を考えてみよう。国家によるテロルや瞞着の文脈においては、

真実という概念を第一に考えしっかりと手離さないことは、強力かつ必然的な抵抗

の形式でありうるのだ。近い過去の真実を確定し公にすることーー特定の行為

について国家の公務員たちに責任を帰し、場合によっては懲罰を課すことーーは、

ここではどんな民主的な未来にとっても不可避の前提となる。〈啓蒙〉の支配的な

語りはここではとくに抑圧的なものとは思えないしー真実の概念は変わりやすく

不安定なものでもないーーその逆なのだ! 真実は、この将軍があの組合指導者

の拷問と暗殺を命じ、この大佐があの村の虐殺を指揮した、ということである。

これらの真実を公にすることは、近代主義の政治の模範的な〈啓蒙〉のプロジェクト

であるが、こうした文脈でそれを批判することは攻撃されている体制の欺瞞的かつ

抑圧的な権力を助けることにしかならないだろう。」p204

 日本でも従軍慰安婦を巡って、上野千鶴子と鈴木祐子が論争した。上野が

ポストモダン派で鈴木が真実派。だがこの本は上野の側を一方的に否定してる訳ではない。

「本当はあれかこれかの問題ではないのだ。差異、異種混交性、移動性それ自体

では解放的ではないが、真実、純粋性、静止状態もまた同じことである。

真に革命的な実践は、生産のレヴェルに差し向けられるものである。真実が

私たちを自由にするのではなく、真実の生産のコントロールがそうするのだ。

移動性や異種混交性が解放的なものなのではなく、移動性と静止状態、純粋性と

混合性の生産のコントロールが解放的なものなのである。」p205

 「生産」という言葉がまだ分からないので、結局レトリックで誤魔化してる

だけちゃうん?という疑問は残る。でもとにかく、クリアーな対立を取り上げ、

具体的な分かりやすい例を短い文章で説明し、「本当はあれかこれかの問題ではない」

と明確な結論を出している。分かりやすい文章、と言うことはできるだろう。

野原燐

吉本隆明について立岩氏が

次のように言っているのに共感しましたので引用します。

 私は吉本隆明という人が言っていることの多くはわからないのだが、ただ、「「市民」にならねば」という強迫のないところ、基本的に政治は仕方がないからするものだという感じで捉えているところは、それでよいのではないかと思い、共感する。ここから見ると、そうでない立場もまた特定の立場のように、はっきりと見えてくる。http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004026.htm

王は外来者だ

1915年生まれ2002年亡くなった宋斗会氏の『満州国遺民』isbn4-8331-0522-5 を買った。p21から引用する。

紀元前1世紀ごろ、扶余(プヨ)が朝鮮北部から中国に高句麗を建設する。後に3世紀朝鮮南部に百済が建国される。彼らは自ら扶余の分かれと称していたらしい。

「ただ、一般的には、ある地域にもともと住んでいたものたちの中からは王はでない。これは決定的とはいえないけれど、一般的にはいえる。

日本でもそうだ。神話に出てくる王というのは、縄文人の末ではないのだから。縄文人は歴史のはるか彼方のほうにかすんでしまって、歴史に登場するのは、外来者だ。朝鮮半島でも同じことだ。」

現在朝鮮人と呼ばれている人間の数は世界中で6千万を超すらしい。ただ周辺部になるとぼけてしまって境界がはっきりしない。宋斗会とは誰か。在日朝鮮人だ、という答えは間違ってはいないとされる。が彼はあえてそれを拒否し、満州国遺民を名のった。彼についてはまた書きたい。

脱北支援の野口さん起訴=中国当局、NGOに連絡

 北朝鮮からの脱出者を支援する非政府組織(NGO)「北朝鮮難民救援基金」に6日までに入った連絡によると、同基金メンバーで脱北者支援中に中国公安当局に拘束、逮捕された野口孝行さん(32)が5日に起訴された。起訴先は南寧市の人民法院(裁判所)とみられるという。

 この情報について、外務省邦人保護課は「確認中」としている。 (時事通信)

[4月6日18時1分更新] (ヤフーニュースより)

イスラエル断交の是非

イスラエルのシャロン首相は「アラファトを殺す」可能性を示唆したと伝えられています。だれが誰を殺しているのか、について小泉氏の認識は間違っている。テロリストではなく、シャロンが先に殺しているのです。イスラエルと団交することの、損と徳を 丁寧に考量したレポートを出すように外務省に命じて下さい。

日本は中国に負けた

「若し是が清朝末期又は軍閥時代の支那であったならば、恐らく南京脆落の後に、然らずぱ漢ロ・広東を失った時に、支那は早くも吾が軍門に降ったことであろう。然るに戦えば必ず敗れながら前後七年に亘りて抗戦を続け、殊に大東亜戦争半年の戦果を目ト*1して、日本の武力の絶対的優越を十二分に認識せるに拘らず、また其の最も頼みとせる米英の援助が殆ど期待し難くなれるに拘らず、尚且抗戦を止めんとせざるところに、吾等は此の四半世紀に於ける支那の非常なる変化を認めねぱならぬ。若し日本が現在の支那を以て、清朝末期又は軍閥時代の支那と同一視して居るならば、直ちに其の認識を更(あらた)めねばならぬ。」「日支両国は何時まで戦い続けなければならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。」(大川周明『大東亜秩序建設』一九四二年、第一書房) 

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p1に野原はこう書いた。

「1937年7月8日北京郊外の廬溝橋で銃撃戦があった。7月11日午後8時停戦協定が成った。ではなぜ、日本軍は8年間も中国大陸全体に兵を展開し続けたのだろう?」勝てると思ったのに勝てなかった。中国と日本との間には、今のアメリカとイラクの兵器格差ほどではないかもしれないが、絶対的な兵器の格差があった。だから、具体的な戦闘では(おおむね常に)勝利しつづけることができた。でも勝てなかった。戦争は難しい。今回のイラク戦争ほど短期間で明瞭な勝利をあげられた戦争はない。フセインと二人の息子も手に入れた。ところが勝利はアメリカの手から転げ落ちつつある。

ウィリアム・オドム(元中将、レーガン政権などで安全保障を担当)は言う。

(4月30日にNBCテレビに出演した)「アメリカは、すでにイラクで失

敗することが確定してしまった。今後は、失敗による損害をどれだけ減らせる

か、ということが重要になる。だから、なるべく早く米軍がイラクから撤退す

ることが必要だ。」

http://tanakanews.com/e0518hawk.htm

 オドムは正しい。だが彼は大川や石原莞爾と同じく、国家意志に影響を与えることは出来ずにイラクは泥沼化するだろう。

*1:目者 という字

在日朝鮮人とは

(突然ですが)朝鮮人でたまたま祖父や親の代に日本に来て今もいる人たち、というふうに在日朝鮮人を捉えていた(ような気がする)。だが、だいたい来た時期は1945年以前であり、朝鮮と日本の間には国境はなかった。したがって、いわゆる在日朝鮮人の現在の法的地位は1945年以来の日本政府の法的処置の結果以外の何物でもない。

http://www.han.org/a/half-moon/hm025.html#No.198 から

田中宏・一橋大教授の文章を引いておきます。

  「在日朝鮮人の国籍問題は、第一次大戦後のベルサイユ条約にある国籍選択方式を念頭に置きながら、やがては日本国籍の一斉喪失へ、そして、それ以降の日本国籍取得は『帰化』によって対処する、その際も、『日本国民であった者』とも『日本国籍を失った者』とも扱わないことによって完結した。

  それは、かって帝国臣民たることを強制した者を、一般外国人と全く同じ条件で帰化審査に付すことを意味し、みごとに『歴史の抹消』がなされたと言えよう。

  そもそも、帰化というのは、日本国家がまったく自己の好みによって相手を自由に『選択』できる制度なのである。前にみた西ドイツにおける国籍選択は、オーストリア人の選択に西ドイツが従う制度であり、日本とはまるで正反対である。(後略)」

泥としての子供の擁護

http://barairo.net/ のhippieさんの下記の文章に

http://barairo.net/UStour2004/archives/000031.html

次の通り、コメントを付けました。

hippieさま

 日比野さんのパレスチナ関係の講演とかを、1、2回聴きに行ったことのある野原燐(ハンドルネーム)(男性)と言います。関連したことを最近少し考えたので少し反応させていただきます。

>>日本の一定のフェミ業界では大きな危機感が抱かれ、「憲法の男女平等を守れ」と強く主張している人がいます。

   「危機感」というのはわたしも少しいぶかしい気がしました。わたしの感覚では男女平等というのは法のアプリオリに組み込まれていると感じており、戦前的パラダイムに本気で戻せるのか、え?え? と突っ込めば法的常識の範疇では答えられないと思うのですが。こういう動きは侮蔑してやるという感覚を広げていけばよいのではないでしょうか。

>>また第一章の天皇制の規定は全て削除して、君主制国家としての日本のあり方を共和制国家に変えるべきです。

   同意します。

>>「現在の私たちの生活」は、守るべきものなのではなく、変わるべきもの、変えるべきものです。

   同意します。

さて、24条改正論ですが、

>>「大人になれば結婚すること」を自明視する社会自体を変えるべきだし、結婚しない人が何の不自由なく生きることのできる社会をつくるべきです。

 まあいちゃもんつけになるかもしれませんが、「結婚しない人」というカテゴリーはちょっとあやしい、と感じる。とりあえずわたしは、未婚の母から生まれた子供が増加し幸福に暮らしていける社会を作っていくべきだと考えています。子供を作らない自由は認めます。人間存在とはその過半が泥のようなものではないでしょうか。仏教で言う「生老病死」とは泥のような対象化しにくいエリアです。そうしたエリアを敬遠し生きていく方向に流していこうとするベクトルがわたしたちの世界には流れているのではないでしょうか。そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。

 日比野さんは子供について一言も触れていないので過剰反応になりますが。子供をどのようなイメージで見ているのかが問題です。子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。

護憲派批判という文脈で書かれていたので、別の文脈でのちょっとした違和感について書いてみました。もちろん批判未満であることは自覚しております。

とりとめのない文章ですみませんでした。

関連表現が下記にあるので、よかったら併せて読んでください。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

はてなダイアリー – 彎曲していく日常

                   野原燐

井沢「数千万」捏造発言

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041018#p1 経由の

http://dklog.jp/u/yuuko999/#0000978507 から

「たかじん」南京虐殺、靖国参拝など(ゲスト:西尾幹二) 「たかじんのそこまで言って委員会」の発言記録をコピーさせてもらいます。

井沢元彦氏の発言。

今、テレビを見てて、西尾さんを、こいつは右翼で嘘を言ってるんじゃないか?と思ってる人に、ぜひ聞いてほしい。中国で戦後、文化大革命があったが、中国共産党は少なく見積もって数千万人を殺した。戦争でなく。20年ぐらい前にそれを言うと右翼だとか、軍国主義だとか、学問をねじまげてるとか言われた。が、今はどうか。中国ですら認めてる。中国の共産党政権は、政権の都合によって事実をすぐ変える。文革は共産党による大虐殺。数の桁が違う。南京30万人どころではない。そういうことをぜひ考えてほしい。

今、テレビを見てて、西尾さんを、こいつは右翼で嘘を言ってるんじゃないか?と思ってる人に、ぜひ聞いてほしい。中国で戦後、文化大革命があったが、中国共産党は少なく見積もって数千万人を殺した。戦争でなく。20年ぐらい前にそれを言うと右翼だとか、軍国主義だとか、学問をねじまげてるとか言われた。が、今はどうか。中国ですら認めてる。中国の共産党政権は、政権の都合によって事実をすぐ変える。文革は共産党による大虐殺。数の桁が違う。南京30万人どころではない。そういうことをぜひ考えてほしい。

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041018#p1 では、

姫田光義ほか『中国20世紀史』(東京大学出版会、1993年)では、

公式発表だけでも「迫害で死亡した者」3万4800人、「中傷・迫害されたもの」74万2511人という犠牲者を出しながら現状を何一つ解決することなく……(241ページ)

となっているので、仮に十倍しても30万、とても数千万人にはならないと、私には思われる。

数千万という数字が勘違いして出てくる根拠として、「当代江北日記」さんは次のように書く。そうだとしても許される勘違いではないですね。

まず、考えられるのは、大躍進運動(1958~1959年)の失敗による餓死者数と混同しているのではないか、ということだ。この死者数も諸説あるのだが、大躍進運動の失敗の結果、59年から60年にかけて1500万~4000万の餓死や不正常な死が発生したと言われる。これは毛沢東による人災だと言っていいが、しかし、故意に殺害したのではないという点で文革とは異なる。

もちろん、大躍進の時に大量の死者を産みだした責任は中国当局が現在も続いている以上、(北朝鮮の場合同様)追求されるべきだと思う。だが、民衆の命に本質的慈悲を持たず、右か左か、自分のイデオロギー的立場*1だけを大事にし、事実を誠実に追求する気など無い「なかった派」は発言しなくともよい。

*1:アプリオリに普遍にたどり着けないものを普遍に置いている大笑いっぽい立場。野原の意見では。