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わたしたちは忘却を達成した

――大東亜戦争と許容された戦後――

 

 

1 リーベンクイズ(日本鬼子)

 ある憲兵曹長は言った。

「私は敗戦後、錦州から引き上げる途中で、やけくその気分でいた。誰でもいいと思って、そのへんを通っている中国人を殺した。人数は二十一人だ。」(註1

 殺人は悪であるが戦争中で相手が敵であれば、悪にはならない。今までの生の習慣の外側にあってそれを支えていた、大きな国際的政治的枠組みが全くリセットされたこと、「敗戦」とはそういう意味だ、そのことはこの曹長も分かっていたのだろう。「やけくそ」という言葉は、それをうかがわせる。だがなんだって、人を殺したりしたのだろう。憎んでいた奴とかいつも負担を掛けられていた奴をこの際だから殺してしまおうというのなら、まだ分からないことも無いが、“誰でもいいと思って”とはどういうことだろう、恐怖の殺人マニアなのだろうか。そうではなかったのだと思う。彼にとっては「中国人を殺す」ことは、悪としての殺人というカテゴリーとは別の所にあったのだ。それを許容した社会の中で「中国人を殺す」ことが、ポルノを見てオナニーする程度の簡単な気晴らしとして習慣化されている一部の人たちが存在していた。それで「やけくそ」になったからつい、いつもの悪習でやってしまったわけだ。二十一人といっても、中国人なら殺人ではない、それは彼にとって法規の問題ではなく、彼の身についた習慣の問題だった。この憲兵曹長の名は記録されていない。それほど珍しいことではなかったから見過ごされたのだろうか。

「そうした理不尽な殺傷は、日本兵や憲兵は誰でも中国ではしていたことだ。」と当たり前のように文章は続く。これは大変なことだ。「侵略は悪だ」「戦争は悪だ」と私たちは教わってきた。だが、戦争も侵略も歴史学的にはあまりに当たり前の普遍的事象にすぎない。そんなありきたりのものを絶対悪と断言されても受容しにくい。体験が断絶している。「侵略は悪だ」というトートロジーが何を意味しているのか、われわれには伝わらなかった。理不尽な殺傷をさりげない習慣として身につける、殺人鬼の練習、それを不可避にする国民的なシステム。あまりに無惨であるがゆえに、語りにくく語りたく無かったものは、語られなかった。

「三光」による華北全体の被害は、将兵の戦死者を除いて「二四七万人以上」ぐらい、と研究者の姫田光義は言っている。少なくとも数万人の殺人鬼が存在したのだろう。(註2

 とにかく、当時の情況を一切知らないと話にならないので、いくつかのサンプルを見てみよう。私の要約ではなく、みなさんはわたしが参照した『戦争と罪責』や最後に掲げた註にある参考文献などを、ぜひ本屋さんなどで手にとって見てほしい。

 

α 中国山西省太原の近くロアン陸軍病院、一九四二年。N中佐が手術演習を告げる。生きている中国人農民が二人用意されている。一人の男が台の上に横たわる。看護婦は男に「麻酔をするから痛くないよ」と中国語で語る。静脈麻酔。男の身体には拷問の痕はない。腰椎穿刺の練習。クロロエチール全身麻酔の練習。虫垂の摘出。上腕の切断。腸の吻合手術。気管切開。心臓に空気を10cc強注入。腰紐で首を閉める。クロロエチール5ccを静脈に注射。呼吸停止。衛生兵が屍体を片付ける。軍医YK氏は夜同僚と酒を飲みに外出する。(p17〜参照、野田正彰『戦争と罪責』、岩波書店、1998年、以下「同書」とはこの本のこと)

β 二十四名の捕虜は目隠しをして座っている。その隣に深い大きな穴がある。Tは軍刀で一人の捕虜の首を切る。これは教育である。見習士官は順に指名され手本を真似る。TSは四番目。TSは刀を構え一気に振り下ろす。首は飛び胴体は血を吹きながら穴の中に転げ落ちる。このようにして各自一人の殺人実習は終わった(TSは帝国大学卒)。(p162参照、同書)

γ 一九四三年一月、山西省聞喜県北白石村。村の住民は一カ所に集められる。住民は抗日意識が強いようだ。NHは住民の中から十五人を選ぶ。隠しているはずの武器食料の在処を問うため皆の前で拷問する。一人を殴打。続いて銃床や棍棒で殴らせる。拷問はずっと続く。彼らは何も言わない。彼らを一軒の家に閉じこめる。夕方また拷問。口のなかに銃剣を差し込みかき回す。舌はちぎれ歯も取れる(p195参照、同書)。

δ 上下谷口村。NHは農民三人を赤い房のついた槍で尻を刺して殺した。続いて五人、部下に同様に殺させる(p195参照、同書)。

ε TYは満州国で憲兵をしていた。TYは考える。一九三一年に中国に来てから十四年間、直接間接に殺したのは。三二八人。逮捕し拷問にかけた人は一、九一七人。(p275参照、同書)

 

 日本軍の残虐行為として最もポピュラーなものの一つは、「実敵刺突」訓練であった。陸軍第五十九師団長藤田は、供述書でこう述べている。「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。四月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない。」「此には銃殺より刺殺が効果的である。」(註3)実際、攻撃的で強い兵を作るのに効果があったかもしれない。でも敗戦になれば、敵から絶対的に糾弾されるのは当然だろう。

 βの場合もまさにこの例である。一人の中国人を数人で次々刺していくのが普通であるが、士官はエリートなので材料(人間)を潤沢に使っている。

 当時、中国人差別意識が広くあったのは知られている。だが、逆に殺した後で、罪の意識を軽くするために、「なに、相手は中国人、チャンコロじゃねえか。オレは世界一優秀な大和民族なんだ。まして天皇陛下と同じ上官の命令ではないか」云々といった形で、差別意識が強化されるという側面もあっただろう(註4

 

 ところで、敗戦時中国大陸(満州以外)には、日本軍が一〇五万人残っていた。主要都市の占領も継続していた。支那派遣軍総司令官岡村大将は八月十四日「百万の精鋭健在の儘敗戦の重慶軍に無条件降伏するが如きは如何なる場合にも絶対に承服し得ざるところ」と電報で本部に主張した。一方蒋介石軍の幹部何柱国大将は七月上旬こう言っている。「日本が敗戦の結果滅亡することは望むところではない。むしろ戦後も東洋の一強国として、中国と連携し、東洋平和の維持に協力されるよう希望する。」(註5)戦後の国際情勢の計算に必死だった蒋介石に対し、岡村の無邪気さは全く悲惨である。敗戦が自己の価値観に沿いかねるものであっても、それ以後も生活も政治も全ては続いていくのだ、ということを考えることができなかった。この点で、冒頭の殺人鬼曹長と岡村大将は全く同じ水準を示している。総司令官としてはまさに万死に値しよう。戦争の目的は講和である。講和とは他者との妥協、つまり自己を相対化することの承認である。「皇軍将兵の血を流した土地は手放せない」という論理は、他者の否認であり戦争目的の喪失をもたらす。目的の無い戦争のなかで、「中国人を殺す」という習慣の獲得だけが目的となってしまったのは、道理だったかも知れない。

 一九三七年八月、陸軍省は支那駐屯軍への通牒で「帝国は対支全面戦争を為しあらざるを以て、陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならず」と示した。国際法無視のやり放題の根拠は、陸軍内部ではこのような通達に求めることが出来る。

 日本軍は、占領地の支配者として数年間君臨したのだから、その地域の生産活動をより活発にし、中国人にとってもその地域が魅力あるものとしその上で利潤を収奪するのが、本来のやり方だったろう。台湾や満州ではまがりなりにも試みられたこのような政策は、中国(台湾満州以外の地域)では無かった。むき出しの収奪と暴力があったばかりだ。

 一〇五万の将兵の残存は、岡村大将のような無邪気な人にとっては、まだ負けていないことを意味する。日本は中国に負けたわけではない、と日本人は信じ続けた。(終いには中国と戦ったことすら忘れてしまった?)確かに一九四五年八月段階、中国戦線で軍事的には日本軍は国民党軍にも共産党軍にも負けていなかった。しかし仮に米英、ソ連などの加勢が仮に無かったとしたら、日本は中国に勝てたあるいは中立的講和を結べる可能性があったのだろうか。たぶん、その可能性は低かった。日本兵が農民の生産手段たる牛をひっつかまえて食べてしまう。そういった情景にあらわれる、日本軍の略奪本意で再生産を志向しない傾向は、時間が経てば経つほど、自分にも不利に働いて来るからだ。

 廬溝橋から八年間で、およそ五十万人の日本人の血が流れた。最後にもう数十万の戦死者がでれば、日本軍は敗北感を味わい、中国に対する日本人の差別意識も、温存されなかったかもしれない。だがもちろん、中国軍は日本人の倫理性の向上のために、自軍を消費するはずもなかった。

 

2 自己表現の不可能性を越えて

 被害と加害。事実は両当事者の<間>にあったはずだ。被害者がすでに殺害されているとき、<間>にしか存在しえない真実は永遠に失われてしまってる。

 また、加害者だけが生き残った場合、彼が語らなければ否認できる。中国での残虐行為の場合、日本国内には被害者の親族などもいないので、ただ不作為するだけで全面的な無視を達成することができた。

 それに対し、上に記したαからεの五ケースは、いずれも加害者自らが語っているという、希有のケースである。ここで参照した、精神医学者の野田正彰氏による『戦争と罪責』は戦争経験者へのインタビューを中心にした本である。YK、TS、NH、TYの四人をはじめとする満州及び中国戦線での戦犯とされたひとたちの告白を取り上げている。

 

 TYは戦犯管理所に数年間収容されている。彼は中国人から悪行を犯した者と見られている。共産主義の学習会に出席する。だが感動はしない。スタッフは中国人(朝鮮系も多かったのか)。彼らは決して侮辱しない。罵倒しない。ちゃんとした食事は運んでくれる。散歩、体操の機会もある。散髪してくれる。病気になれば看護を受けられる。TYもかって多くの中国人を捕らえ留置した。暴行し水も飯も与えないのを当然と思っていた。留置者に入浴や散髪させることなど思いつきもしなかった。あるスタッフに導かれ廊下を歩いていたとき、彼に回心が訪れる。「私は極悪人だ」。彼は床に頭をなすりつける。(p272、同書)

 

 話が前後するが、彼らが反省に至る経過を、同書九十七頁以下からもう一度紹介する(註6)。彼らは敗戦後、ソ連軍の捕虜となり五年間労働させられた。一九五〇年七月、九六七名の日本人捕虜が中国側に引き渡された。彼らは捕虜から戦犯となった。ところが驚いたことに、待遇は飛躍的に向上した。「中国側は流暢に日本語の話せる軍人や医師と看護婦を配置し、ハルビンで買い集めた白パンとソーセージで迎えたのだった」。戦犯たちは不安に思い、軍歌を高唱し、スタッフに傲慢に対応した。だが中国側の態度は変わらず、丁寧なままだった。「外部に対して厳重に警備し、戦犯たちの安全を確保する。一人の逃走者も、一人の死亡者も出さず、内部は緩やかにし、殴ったり、人格を侮蔑したりしない。彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」と周恩来が強く指示したからだという。スタッフは皆、日本軍からひどい目にあわされており、強い葛藤があった。それでも、ここ撫順戦犯管理所ではゆったりと日々が流れていった。この本では、判決が下りるまでを六期に分けて、記述しているので、紹介する。

 第一期。虚勢反抗の時期。朝鮮戦争が激化し別の監獄に移送されるがまた戻ってきた。

 第二期。(五十二年から五十三年まで)受容と学習の時期。音楽班を作ったりレーニンや国際法などの勉強。

 第三期。(五十四年)坦白(タンパイ)と認罪。非人道的行為の告白(中国語で坦白)が始まった。検察団による個人調査が始まった。すべての残虐行為を思い出さないといけない。

 第四期。罪の自覚と再出発の希望。犯罪告白が終わり、五十六年一月からは、自主的に残虐行為を創作や演劇にする活動が始まった。

 第五期。判決期。(五十六年三月から八月)公判の前に、革命後の中国社会を、彼らに参観させるための一ヶ月の団体旅行が行われた。六月、中華人民代表大会の委員会で「寛大処理」の決定。裁判は六月から八月まで。一、〇一七名は起訴免除で、釈放帰国。有罪は四十五名だが、死刑及び終身は無し。八年から二十年の刑を受けた有罪者も、捕虜あるいは戦犯の期間を刑期に算入することを認められたので、六十四年までに全員帰国した。寛大処理について、検察団はかなり不満を持ち、周恩来に直訴したが、「二十年後に、君たちも中央の決定の正しさを理解するようになるだろう」と諭された。

 日本の戦後思想史は、東京裁判史観とその反発の二派から構成される。激しい対立のようだが、<自虐と自慰>といわれるように、双方とも一国主義的ナルシズムに基づいている点が、あるのではないか。軍事的にはアメリカの庇護の下にありながら、それをなるべく意識しないようにしていた、そして日本は太古から四島で構成され、中国や韓国とは無縁だった、と思おうとした<わたしたちの意識>を根拠にしていた点で。それは瀋陽裁判の無視の上に成立したものにすぎない。殺すべき他者を抹消せず生き延びさせる効果に賭けた、瀋陽(および太原)裁判はわたしたちに、とても大きな示唆を与えうる。

 

 ところで、冒頭の殺人鬼の話だが、これは、『聞き書き ある憲兵の記録』という本の二四九頁に、たまたま載っていた話だ。この本は、TY氏が満州で憲兵になり拷問などもしばしばやった、という半生記の聞き書きである。冒頭のエピソードは、上記でいう第三期に先駆け、いち早く告白された例としてあげてあった。なお「敗戦後」とあったが、殺害の当時そういう明確な意識は、おそらくなかっただろう。収容所の学習で「敗戦後」という言葉と同時に価値観の断絶を知った。それは彼にとって何より、「敗戦後だったら言い逃れしようが無い」という価値観(わたしたちと同じ)が自己を糾弾するという体験であったのだろう。ところで、彼らの告白には、偽軍(日本に組織された中国兵)とか蟠居(占拠のこと)とか中国側独特の言葉が頻出し、ちょっと変な感じがする。

 

 わたしたちは子供のころ世界を認識する枠組みを身につけ、よほどの事がないとそれは変わらない。右記のαからδまでのようなことは、私たちの常識からおおきくはみ出しすぎて、直視せず目を背けたままにしておきたい、という衝動にかられてしまう。上記ほどでもない罪が、もっと大きく罰せられたことも多い。例えば、一九四五年四月の石垣島で撃墜された米軍機に乗っていた三人が殺された事件では、一審ではなんと四十七人が死刑、後減刑されそれでも七人が処刑されている。(註7

 忘れてしまわない限り、自分の体験を語るのはいつでも、可能である、とわたしたちは思ってしまいがちだ。だがそれは、過去の座標軸と現在のそれが、大きくは、ずれていない場合だけだ。例えば、西欧のユダヤ人の場合でも「平和運動に参加した人々にホロコーストを生き延びた人がかなりいた。彼らは平和運動への強い参加動機を持っていたが、決して自分の過去を語らなかった。」(p323、同書)わたし自身もそうだが、こういった話を聞く(読む)場合、「分かった分かった」(分かったから、もうそんな話は聞きたく無い)という反応を、示してしまうのは何故だろう。何かが、わたしたちを不安にさせる。

 天皇と大日本帝国という枠組みから孤立して、中国の庇護のもとで数年間、保護され指導された。その結果ヒロヒト主義を棄て毛沢東主義になった、というのなら、主体性のない<洗脳>の物語になる。そうではなかったようだ。その証拠に彼らは、日本に帰って来て数十年、孤立しながらも、反省と日中平和を訴え続ける思想を変えていない。日本の侵略と残虐行為の生き証人として、あわよくば日本の再反動化への防波堤として反省した彼らを使いたい、中国政府はそのような自己利害のために「寛大処置」を取った。だが、戦犯たちの課題は全く違ったものだった。直視しえない悪を、自己が犯してしまったこと、それは自己の内で強く抑圧され、認めることのできない、暗部だった。反省を強いられ、過去を文章化することが出来てもなお、それを自分のものにするためには、ある<回心>の契機が必要だった。「『私は極悪人だ』。彼は床に頭をなすりつける。」というのを、三流芝居のようだ、などと言ってはいけない。被害者の気持ちの理解をじかに加害者に求めてはいけない。それは欺瞞的演技を求めることになってしまう。そうではない。極悪人であっても、人間は変わりうるのだ。誰にも見えない彼らの心の底で、激しい戦いがあった、とわたしたちは理解すべきなのだ。

 

3 反省 と 亡霊 

 話を戻すが、やっとの思いで帰ってきた日本は、彼らに冷たかった。戦後十年以上経ち、日本は風俗も常識もすっかり変わっていた。敗戦という断絶にこだわっている人など、誰もいなかった。人々は国家や民族の匂いのする物を嫌い、金儲けに夢中だった。マスコミは「中国帰りは洗脳された人」というレッテルを張り付けた。就職はいつまでたってもできなかった。公安調査官が時々やってきた。(増員を急ぐ自衛隊だけが熱心に勧誘してきた。)

 反省を訴える行為は、執拗な妨害に出会った。例えば次のような例がある。中国帰還者連絡会によって書かれた『三光』は、一九五七年光文社から出版されたが、右翼の妨害により市場から姿を消した。 森村誠一の『悪魔の飽食』がベストセラーになったが、八十二年九月写真誤用問題で、すさまじい糾弾の集中砲火をあびた。そして絶版となる。おなじく新編『三光』も八十二年に出版されたが、写真誤用問題で糾弾が激しく絶版。(註8) 体験者による実録の小規模な出版に対しても、「悉く事実無根、ウソの固まりである」「腹を切れ」云々と罵倒を連ねた匿名の手紙が殺到する。攻撃者にとっては、隠蔽が当然で反省と公開こそが糾弾されるべき、であるようだ。人間性の腐食が、当たり前のように存在しているのは、恐ろしい。

 兵隊に行って苦労した者たちをすべて悪である、かのように言うのはやめろ、というのは理解できる主張である。わたしは、すべてが悪とは考えない。ただ、私たちの感覚からは「殺人鬼」と言うしかないであろう存在が、当時数万人以上はいただろう、と考える。そして、上記のように、そのことをきちんと反省しない事の方が、当たり前とされてきたのが、戦後の経過だった。

「そして、戦争責任を「一部の軍部」に追いやり、彼らを「国民」から外してしまうことで、「国民」は責任から免除される。政治責任を持つものは、戦争について責任を負わなければならないが、自分たちは被害者である以上、責任は負わない、という図式が生まれる。」(註9)このように、自分たちを被害者であるとする位置付けを、普遍化することで、戦後の国民アイデンティティは形成された。そのためには、加害者としての体験を疎外することが必要だったのだ。

 いわゆる右翼たちは矛盾した論理を総動員して、発言者の口を封じようとしてくる。きみは偉そうに言っているが、はたしてその現場に立ったとき、上官の命令を拒否できるのか。その自信がもし無いなら、偉そうに他者を裁こうとする言説は発し得ないはずだ、と言いつのられたらどうするか? わたしたちのすべては、幸せにも直接人を殺すといった事態に、仕事とかで出会う機会は無い。つまり、わたしが殺人鬼の話をここに再現することから、なんらかの教訓を受け止めることができるならそれは、殺人という身体的具体性においてではなくメタファーとして<殺す>こととしてだろう。例えば有明海の防潮堤(海をころす)とか、何らかの危険性を疑われる薬を使ってしまう(エイズ問題)とかだ。「殺すな」という絶対的な命令だけを掲げても、曖昧さをともなうそういう事態には、有効性を欠くように思う。

 βの話の最後には、このような文章がある。「思えばこの蛮行の瞬間から、私たちは人間であることを止め、殺人鬼に転落したのである」。最初の殺人があり、次の殺人がある。そしてまた次の殺人、と繰り返していくうちに、最初感じていたはずのためらい、抵抗感といったものは皆無になり、何も感じなくなる。人間は弱いものだ、といって言い訳できるわけではないが、ある予想もつかない情況のただ中に置かれた、自分が<一度目の殺人>を犯してしまうことは、よほど根性が無い限り避けられないかも知れない。でもそれが、本来の自分の感受性価値観に反することであるなら、そこで後悔すべきである。後悔すれば、<二度目の殺人>の機会に対して、身構えることが出来、上手くいけば、それを避けることもできる。一度やってしまったから、と言って自己を合理化すること、それは如何なる情況からの圧力でもない。自己と自己の関係である。したがって言い訳できないと考える。

 戦後五十六年。わたしたちは忘却を達成した。しかしながら、すべての日本人が忘却しても、この場合に限っては問題は解消しない。もちろん数千万の被害者が他国に居て、中国などでは記憶の再生産もきちんと行われているのだから。(必要以上に?)

 

「銃を持って中国に侵略し、中国の人々をより多く殺害することこそが『国のため』、『親に孝』であると信じておりました。ゆえに、中国で数多くの人々を殺害してきました。(改行)そして終戦。わたしは被害者である中国人民の暖かい心に接し、鬼から人間へと立ちもどることができました」(註10) 中国帰還者連絡会編『完全版 三光』は、上記のような反省の過程で生みだされた、二十二人の文章をまとめたものだ。これは、その中のひとりHS氏が、一九八二年に出版に際し書き加えた一言の一部である。わたしのようなものが、偉そうに言える立場ではないのだが、ステロタイプ、大きな物語に頼りすぎ、といった批判的感想がどうしても浮かんでしまう。

 反省とは何か? ある外側の価値基準や物語に合わせて、自己を裁くことではないはずだ。自分のしたことを「した」と言うことの困難に、まず気付くこと。苦しくてたまらなくなる心を回復すること。<亡霊>そのものがリアルに立ち現れる不可能な体験。

「YKよ。わたしは、お前に息子を殺された母親だ。あの日の前日、息子はロアンの憲兵隊に引っ張って行かれた。(中略)翌日、知り合いのひとが来て教えてくれた。おばあちゃん、お前の息子は、陸軍病院へ連れていかれて、生体解剖されたんだよと、そのひとは言った。わたしは悲しくて悲しくて、涙で目がつぶれそうだった。それまで耕していた田も耕せなくなった。食事もとれなくなった。YKよ、いま、お前が捕らえられていると聞いた。どうぞ、厳罰を与えてくれるようにと、政府におねがいしたところだ」(p34、同書)。限定された対象が、まざまざと一人の人間として現れる。周囲に流された結果であるといっても自己の責任は免れ得ない。……

 

■備考 「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」という言葉、について

 十二月八日を開戦記念日と言い、第二次世界大戦とか太平洋戦争という言葉しか使用しない。それでは、日本が中国と戦ったことを皆が忘れてしまっても、当然だろう。日本はアメリカに占領された。従って日本はアメリカにだけ、負けたのだという図式が強かったのは当然だ。しかし、現在までその構図が崩れていないのには、理由がある。日本は中国に負けた、と思いたくないのだ。明治以来、東アジアでも最も先進国、というところに日本のプライドはあるのだから。大東亜共栄圏というスローガンを掲げながら、「中国人を殺すことが善」という殺人鬼を、多数養成したこの戦争は、やはり大東亜戦争と呼ぶしかないだろう。

 ところで、小林よしのり『ゴーマニズム宣言 戦争論』の一番ナンセンスなところは、「サヨクは、日本だけをいつまでもいつまでも裁こうと、国際的な活動をして回る」(p117)と言って、他国からの非難が、あたかも日本のサヨクが働きかけたせいであるかのように、問題を国内化しようとしている点である。

 

■備考 仮名について

 この文章の主題である残虐行為の行為者であり同時に報告者である、YK、TS、NK、TYの名は、プライバシーを理由に仮名にしたわけではない。彼らは残虐行為にもかかわらず(それゆえに)高齢を押して、証言(自己の真実をみんなの前にさらし、隠蔽を働きかける世間と戦うこと)を継続してきた。わたしは彼らを尊敬する。世間に実名をさらしながら。ここで取り上げた以外の本にも出てくるので、ここで名前を開示しておこう。YKは、湯浅謙。TSは、富永正三。NKは、永富博道。TYは、土屋芳雄。湯浅は『消せない記憶』という聞き書き本を持つ。富永は中国帰還者連絡会の会長。著書『あるB・C級戦犯の戦後史』水曜社、1986。永富は『白狼の爪痕』新風書房、1995を持つ。土屋の『ある憲兵の記録』は文庫本であり入手容易。

 何故、仮名で記述したか?わたしに、残虐行為を直視しえないためらいがあったため、だろう。わたしたちの世界は本名=自己同一性というフィクションの上に成立している。だが、アウシュビッツやここで記した残虐行為の体験は、同一性の秩序から脱落してしまい<語り得ないもの>の領域に属する。彼らの絶対的<回心>に匹敵するほどの何ものももたないわたしにとって、かれらはまず仮名としてあらわれる、とりあえずそうしておいた方が良いと思われた。

 中国側のスタッフの固有名もついでにあげておこう。副所長、曲初と、所長、金源。かれらの名前は『ゴーマニズム宣言 戦争論』のp189とp191にも載っている。

 

■蛇足 去年の暮れ、台湾に3日間パック旅行に行きました。何でも漢字で書いてあるので、道に迷うことはありません。日本の台湾支配の象徴と言われる総督府の威厳あるビルのかたわらに、小さな228記念館というのがあります。228事件とは1947年2月28日以降に起こった、国民党勢力に反対する全国的反乱のことです。その記念館の密やかなたたずまいは、わたしに何かを強く感じさせました。わたしは生まれてほぼ50年、日本から出たことがなく、つまりそうである限り、日本人のすべての愛や争いの根拠にある枠組み、自分のなかに自明性としてあるそう言った枠組みが、ガツンと衝撃を受けるという体験をしたことがありません。国家の基軸が模索され再編されていこうとしている、台湾のあり方は、私のなかの自明性である<日本>が、ぼんやりと浮かび上がるきっかけとなりました。外国であれば日本とは違うのは当たり前ですが、台湾の場合はかって日本であったわけで、日本に近い面があり、そのせいで半音だけずれた微妙な不快感といったものが、存在するようにも思うのです。今回大きすぎるテーマの文章を書いてしまいましたが、実はある微妙な思いに導かれてのことなのです。

(敬称略)

 

註1 p249、朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』、朝日文庫、1991年

註2 「三光」とは「殺光、焼光、搶光」殺しつくし焼きつくし奪いつくすことを言う、中国側の用語。一九四一年十一月岡村大将は「焼くな殺すな犯すな」の三戒を部下に訓辞した。実際はその少し前から泥沼の三光状態に陥っていた。

註3 p32、新井利夫・藤原彰編『侵略の証言』岩波書店 1999年

註4 p59、朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』

註5 p171〜p172、森山康平『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年

註6 山西省太原には軍閥閻錫山がおり、それと結んだ旧日本軍の一部(と河本大作など)が戦後も残留して活動していた。一九四九年四月に共産党軍に敗北した。NHとYKはこのとき捕虜となった。ソ連の捕虜にはなっていない。

註7 p226、太田昌秀編著『これが沖縄戦だ』、琉球新報社、一九七七年

註8 一九八四年以来 中国帰還者連絡会編『完全版 三光』晩聲社、で刊行中。

註9 p121、藤原帰一『戦争を記憶する』講談社現代新書 2001年

註10 p92 中国帰還者連絡会編『完全版 三光』 1984年

  他に、本多勝一・長沼節夫『天皇の軍隊』朝日文庫 1991年 は一部レトリックに首をかしげる点があるが、兵の視点から山東省にいた師団の全体像を描いていて読みやすい。



謝辞  La Vue編集のY氏とK氏に感謝します
この原稿は、『La Vue 6号』に掲載されたものです。

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