野原くんの入院通信


以下は、1999年の夏に野原が入院(カラ入院?)したときのリアルタイム通信の複写です。

  “ to:nyuin”
  “sub:語り得ない・・・”

ごぶさたしています。
         YG  または野原燐 です。

突然ですが、
今度、入院することになり、友人から小さな(B5サイズ) のパソコンを貸して貰った。(日本橋で中古のモデムカー ドを5800円で購入。)そこで、“入院通信”のようなもの をみなさんに送付してみようかなと思った。入院とは言っ ても、検査のためなのでわたしはとても元気です。

さて、この話は数枚の画像から始まります。 4月7日に医師から、わたしの肺のCT画像を見せられた。 真っ白な像が直径1cm たて2cm弱ほどそこに存在するの が見えた。癌か結核が疑われると医師は言った。たぶん癌 に違いないとわたしは思った。たとえ癌であったとしても、 極初期だから切除すれば8割以上直るとのことであった。

万人は<死>を所有している。が<死>をみたものはいない。

その後、6月に病院を大阪に変えました。そして、6/9 からそこに入院、6/11検査、6/15に退院した。今 度は2度目の入院になります。検査結果は陰性だったのに それでも切除した方が良い、との医師の助言に従うことに 決めたので。入院は2日後ぐらいになると思います。

というわけで、これ以上特段のことも無いとは思いますが、 手術(7/7予定)まではヒマだと思うので、またメール します。

ではでは。

               YG

今日電話掛かってきて、明日9時半までに病院へ来いとい う。そこで、みなさんびっくりされるでしょうが、このメ ールを送ることにしました。 送付範囲は、ニフティでの私のパティオ仲間、友人の山本 氏の友人たち(大阪思想の科学)、その他のYGの友人、 20人ほどです。 家からしかアクセス成功してないので、公衆電話からのメ ールが成功するかどうかとても不安です。うまくいけばま たメールします。  とにかく私は元気ですからその点は心配ありません。


sub:野原くんの入院通信(その2)



4人部屋だが、窓際のベッドに入れた。10階なので見晴らしが良 い。この辺は大阪の町外れだが残念ながら田圃などはもはや無い。 ビルと2,3階建ての住宅が雑然と建ち並んでいる。家と家の間の わずかな隙間に緑もチラホラある。

入院すると入院アンケートがある。病歴などを聞かれるが、最後に 「何をたよりに自分を支えていますか」という宗教的?な問いがあ る。家族によってわたしはささえられているだろう。年少の子を保 護しなけならないという具体性は私を支える。それだけではなく、 手術すれば1,2週間自分で洗濯(コインランドリーだが)できな い。とすれば妻(あるいは母)に全面的に依存せざるをえない。で も核心において、わたしがわたしを明日に生きのびようとする力を わたしはどこから得ているのだろう。職場や家事など一切の仕事か ら切断されてしまったとすれば、ひとは一体どこから回復への<力> を汲み上げることができるのか。わたしは無神論者だ。であればこ そ祈りというものの形と内容を模索していきたい。病院では、その ままの姿勢で数分間体を動かすな、と言われることがよくある。痛 くない場合でも結構退屈で、なにか他のモノに意識を逸らすことが 効果的と思われる。長いお祈りや唱えごとを暗記していればこんな ときに効果的ではないか、と思います。

ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳を12ページだけ読んだ。最初 の「感覚的確信」だ。曲がった棒がある。とすれば、それはどう検 討しようとも、曲がった棒以上でもなければ以下でもない、と私に は思われる。読み進んで行けば面白いところもあるのだろうか。

野原燐
公衆電話からの初アクセス、10数分後になんとか成功! これは一発でうまくいくかな? 今から向かいのスーパーにチーズを買いに行こう。


sub:野原くんの入院通信(その3)

病院の一日はけっこう忙しい。基本は食事と排泄。食事は、7:30、 12時、18時だが、放送があると食堂まで行く。冷めないようにすぐ 行くことにしている。今日はインゲンのおひたしとすき焼きでお麩 がおいしかった。フルーツポンチみたいなのもあり、白玉が美味し かった。排泄。大便は自由だが、小便はいちいち尿器にして、尿を ためるところに溜めておかないといけない。毎日の尿量を予め知っ ておいて、手術後に参考にする為だ。尿を溜めるところには、数十 の目盛りのついた直方体の容器がずらっと並び、氏名別の尿量が一 目で分かる。営業マンのグラフと違い一目で分かる必要なんかない のに。すぐにでも流してしまうべきとされている小便を、大事に大 きな装置まで作って溜めているのがおかしい。

今朝は2回も採血があった。2回目は、血液中の酸素量を調べると かで、動脈から血を抜いた。わりに上手かったのでそれほど痛くは なかったが。それから運動負荷付きの心電図、たった2段の階段を 3分ほどリズミカルに上り下りした後、心電図を取る。一日3回の 吸入。1回10分ほど蒸気を吸うと痰が出やすくなるそうだ。イン スピレックスというプラスチック製の器具もある。吸い口から息を 吸うと、それに繋がった器具の小さな軽い玉が15cmほど上に浮く。 おもちゃのような器具だが、呼吸力の練習だ。まじめに練習すれば 手術後が楽だと言われるのでやることにする。

風呂は10時から1時。12時過ぎに入ると一人で大きな風呂を占 領できたので、なかなか快適だった。病院の隣には「心のケアセン ター」かなんかという別の公立施設があり、そこの一階に誰でも入 れるとても小さな図書室がある。心理学関係だが、思想関係もごく 少しある。今日訪ねたらやはり誰も座っておらず、ゆっくりヘーゲ ルが読めた。

さて、ヘーゲル。今日は「知覚ーー物と錯覚」だ。ここに塩がある。 白くて、辛くて、立方体で・・・といろいろな性質を持つ。物とは たくさんの性質をまとめあげる媒体だ。(p81作品社)ところで、 性質とは差異である。(差異という言葉はヘーゲルあるいは訳者は 使っていないが)白は黒などと対立する白だ。差異によって構成さ れた対象というのは構造主義的な感じがする。ただ現代思想の場合 対象は物ではない。イデオロギーみたいな幻想領域にそれはある。 イデオロギーに規定された私たちがイデオロギーを規定しているみ たいな循環におちいっていないだろうか。その点、ヘーゲルは「 物は単一体であり、自立した存在である」ときっぱりしたものであ る。かっこいいとは言える。

「物が自立しているというのは、他との関係をすべて完全に否定し て、自分とだけ関係することだが、自己と関係するこの否定の作用 が、物を廃棄するような、いいかえれば、他のものを本質的に認め るような力をうみだす。」p88 自立というのは他者を否定することだが、他者をうち消そうとする ことはまさに、他者との関係を不可欠とすることだ。というパラド ックスですね。フェミニズム風に読むと、男が自立するとは、非自 立的雑事を女に押しつけることだが、そのことによって、じつは女 から自立してないことになる、といったものか。

なぜヘーゲルを読むか、というと小説と違い難解な本は、同じ行の 上で時間がずっとたゆたい揺らぎ、その無意味な持続は不快である と同時に快であるから、というところか。

                 野原燐
突然の入院という切迫感だけで始まったこの通信ですが、明日は一 泊家に帰れることになったぞ。7/7手術は変わらないので同じで すが。

たくさんの方からメールをいただきました。わたしの突然の 試みを暖かく迎えていただきありがとうございます。

田中英俊氏からのメールの一部と野原のRESをペーストさ せてもらいます。

| それと、奥さんに洗濯しても
|らうことがそれほどYGさん自身の存在を脅
|かすものなんですか? 僕とは違うのでその
|あたり興味があります。(田中)


そんなふうに書いてたっけ? 「妻に全面的に依存せざるを得ない」と書いた ところですね。たしかに普段は全然依存してな いけれど体が動かなくなったら、万やむを得ず 依存する、といったふうにも読めますね。実は 全然そんなことはなく、ふだんから依存しまわ り(家事労働搾取??)です。<私>というも のを家族や仕事から全く自立した透明な存在と して立てておきたい、みたいな無意識の欲望が 強すぎるのでしょう。(野原)

(なんだかいまいち本音に至ってない文章なんだけど、きょ うのところはこれで。)


sub:野原くんの入院通信(その4)

36時間ほど外泊していま病院へ帰ってきました。家では、ニフテ ィサーブへのアクセスはしたもののメール一つ出せなかった。子ど もたちがやかましかった。公園で野球、というか、ポリエチレンの バットで球を打つ練習をした。1年生にしては結構上手に打ってい た。下の子はいつもそうなのだが、手を繋ぎたがっていた。でも結 構憎らしいことを言うので、すぐ喧嘩になる。遊んでとまとわりつ く子どもたちに対し、ヘーゲルを読まなきゃならないから駄目と断 り続けた。これではヘーゲルに、<無限の区別の中で自己同一性を 貫くことのできない、「われ」という純粋な抽象体>と貶しつけら れるのではないか。

ヘーゲルは、感覚的確信と知覚が終わって、力とかが出てくる章に なった。ところがこの章が全然読めない。いらいらしてもう止める ことにした。ところで、精神現象学と言えばやっぱり「主と奴」で しょう。バタイユも注目した。「主人と奴隷」については私が読み 止めたわりとすぐ後にあるようだ。ページ数も多くない。そこで、 そこだけ読むことにした。自宅では読み切れず、最後の3ページを コピーして病院へ持ってきた。本は重いので置いてきてしまった。

奴隷は主人が絶対だと思っている。奴隷は主人の存在を我が身に経 験している。純粋な否定力をもつ自立存在であるという客観的真理 が、奴隷の意識において生じている。(p136)一方奴隷は主人によ って死の恐怖をあたえられている。それは内面の一切が崩れるほど のものだ。それをヘーゲルは、自己意識の単純な本質たる絶対の否 定力のあらわれ、といえるのだと言う。自分の日常意識が残りくま なく動揺にさらされない限り、どこかに何かよりどころが残る。で もそこに自己があると思うのはわがままにすぎないのだ。それに対 し奴隷は自己を失い、労働つまり物との関係に入る。労働は欲望を 抑制し、物の再形成へと向かう。すでに自己を失っている奴隷は、 物を否定しつつ形を整える行為(労働)の場において、意識の個性 と純粋な自立性を発見できる。物を打ちたたくことにより物の形を 打ち出す、その形こそが意識の自立性の真の姿なのだ。こうして意 識は自分の力で自分を再発見する。

主人と奴隷というとひとは必ず主人の方に自己同一化するだろう。 主人という名の服従の訓練を受けてきたわけだから。でもここでヘ ーゲルが言っているのは、一切の従属、つまり一切の労働なしに生 きられる人だけが主人なのだから、労働を受け入れた私たちはむし ろ奴隷になるだろう。そこで、奴隷の内面は一旦は全面的に崩壊し ないといけない、という論点が非常に興味深い。あなたは主人を持 っていますか、という問いにNOと答えたとたん、ゲームオーバー。 あなたは奴隷として取り残されることになる。たしかにそれでは、 貧しい限りの自己の一部に闇雲に取りすがる生しかおくれまい。

私が労働を受け入れた限り私は奴隷だ。絶対的であるところの主人 の普遍性を、「むこうにあるもの」として充分経験しなければなら ない。法律や医学については、不必要なときは意識しないが、必要 になれば、「むこうにあるもの」としての非対称的な権力関係をひ しひしと感じながら勉強しなければならない。そんなことを連想し た。一切を失い、水を飲み尿を生産する機械にまで還元される覚悟 という地平にまで静かに降りていかなければいけない。そこでなま じヘーゲルなぞ読んで、意識の万能性の神話にとりすがろうとして はいけない。<内面の一切が崩れる>という語り得ない事態が来る としても、きっとそこから<自主・自立の過不足の無いすがた>が 立ち上がってくることがあるのだから。 ・・・・・・

                 野原燐

sub:野原くんの入院通信(その5)

朝1番の光が東から一杯に当たって、気持ちの良い朝です。私は昨 日から喉が少し痛い。耳鼻科に行くと鼻にカメラを入れて見てくれ て、蓄膿とまでは言えないが粘液が大分多いと言われた。いよいよ 明日手術だ。昨日は麻酔科の説明もあった。痛み止めのために硬膜 外カテーテルを脊髄のそばに入れる。その後、たっぷり目に全身麻 酔し、気管に2本の管を入れる。2本を左と右の気管支にうまく位 置付けて、左の肺からは空気を供給せずぺったんこにしてしまい、 右の肺だけで手術中呼吸できるよう援助する。喘息のため敏感にな っている気管に普通より太い管を入れるので、喘息を起こさないよ う、麻酔をたっぷりめにすると説明があった。手術時間については 、2時間であろうと24時間であろうと麻酔がかかっているから、 私の意識にとっては同じだ、という身も蓋もない説明があった。麻 酔が原因で死んだ方は10万の内、1.8件だと書いてある。でも 目が覚めなかったひととかはもっとたくさんいるにちがいない。

今日夕方、主治医から手術についての説明を受ける。外科のこの先 生がわたしの主治医になったのは2週間ほど前にすぎない。彼は言 葉少ないタイプのようなので、うまく質問しないと何も言ってくれ ない。わたしにとっては状況が4月から変わっていないというあせ りもあり無力感もありなかなか大事な質問をするだけのパワーがわ いてこないようだ。素直でなければ!(彼はわたしにとって4人目 の主治医だ。)

看護婦さんに毛剃りしてもらった。毛剃りはエロチックだ。

夜、7時45分になってしまった。 医師から説明を受けた。妻と友人のKさんと一緒 に。ヴァッツ(内視鏡による摘出)をして、その場ですぐに検査し 、悪性であれば、さらに開胸手術を行う。とのこと。その場合肺の 上半分とリンパ節をいくつも切除することになる。リンパ節を切除 することによるデメリットについて質問した。まあ免疫機能が弱ま るとは言えるだろうがそれほどのものでもない、といったような説 明。後でリンパの位置を示す図をわざわざコピーして説明してくれ た。私がそう希望すればヴァッツだけやってもらうことができるの か、どうか、については質問しなかった。

何度も手術を受けている妻が、手術の時はやはり緊張するので、腹 式呼吸とイメージトレーニング(悪いところを取ってもらうとイメ ージする)が大事と教えてくれた。主治医の先生をカミサマとまで 思って自分をあずけてしまう方が良い、と。うーん、なるほど。ま あここまでくればそれしかないか。友人のKさん(女性)は妻に愛 の告白をしておけ、と核心に触れる忠告をしてくれた。

今から点滴する。9時ごろに安定剤と下剤をもらい寝る。明日は浣 腸、注射、点滴、8時半から手術室へ。という手順で、上手くいっ ても3、4日は何もできないだろう。まあパソコンはしない方が体 に良かろう。ではしばらく・・・

夕照りの異様に赤き山の背を越えて眠りにゆく族(やから)あり (斎藤史)

                 野原燐

SUB:野原くんのよかった



7月7日9時から手術室に入り、
その<陰>を摘出しました。
結果は結核腫。
癌ではありませんでした。
みんなに心配いただきありがとうございまいた。
    YG


sub:野原くんの入院通信(その7)

7/7水曜。手術。
8時半少し前、3階に行き、移送用の小さいベッドへ。すぐに手術 室で手術用小さなベッドに移る。ベッドがあまりに小さいので頼り ない感じだ。ひとはたくさんいる。痛み止めを入れるための部分麻 酔、背骨を曲げ猫みたいに丸くなる。そのあとすぐ意識が無くなっ た。
・・・・・・
気がついた。痛みはそんなに無い。天井の様子とまわりの雰囲気か ら10階だろうとぼんやり思った。良かった。ICU(3階)に入 るかもと言われていたため。しばらくして和美が来て、結果(癌で なく結核だった)を知らせてくれた。
夜、うつらうつらしかできない。夜ねたかなと思い時計を見ると40 、50分しか経っていない。それを十数回くりかえした。でもぼんや りしていて苦痛はない。痰を出せと言われるが出ない。

7/8 木曜。
今回のわたしのようなごく軽い手術でも、手術室からでてきたとき は、肺の漿液を取る管、尿管、点滴2カ所、痛み止め、心電図、血 液中の酸素量の指輪とさまざまなチューブ類が連結されていた。私 の場合は軽かったので二日目のこの日から、次々にそれらを外して いった。運動面でも最初、看護婦さんにベッドを動かしてもらって やっと座っていたが、その後ちょっと痛いがベッドの柵に掴まり座 れるようになった。痰に血が混じっている。尿管を取り点滴と肺の 液、二本になったのでトイレに行ってもいいと言われるが、しんど いのでポータブルトイレでした。便もごく少量出た。入院通信の読 者に結果を知らせようとパソコンを出しとうっていると三分ほどで 一応打ち終わったとき婦長さんから禁止がきた。終わっていたので、 素直に従い。和美に公衆電話からのアクセス方法を説明しやってみ てもらった。一度で出来たようだ。

7/9 金曜。
肺の液の管はプラスチック製のごく平たい水槽みたいのに繋がって いたが、それでは持ち運びに不便なので、ちいさな袋に替えポータ ブルにした。極うすい赤色で美味しそうな感じ。点滴も針の部分だ け残して取ってしまったので、自由に歩き回れる。パンツに穿き替 えパジャマに着替えた。それまではT字帯といってふんどしを形だ けにしたようなものを付けていた。フリチンとあまり変わらない。 看護婦さんに見られて恥ずかしいようなものだが、よくしたもので あまり感じなかった。パンツを穿ける身体状態になってから羞恥心 は生じるもののようだ。痛み止めが切れて、夜なかなか眠れなかっ た。今日は母が来てくれた。

7/10 土曜。
主治医が来て、最後の管、肺の漿液の管を抜いてくれた。少し痛か ったがこれでやっとワイヤードでなくなった。看護婦が上半身を拭 いてくれた。下半身は風呂入って良いというので、入り下半身だけ 洗った。母と、TKさん、KJさんが順にお見舞いにきてくれた。 遠いのにわざわざ来てくれてありがたい。予想以上に元気そうでよ かったと言ってくれた。

7/11 日曜。
ぐっすり眠れた。やっと元気になってきたのでパソコンを始めよう としたら、冷房の空気に反応したのか、咳が続けて出たので少し苦 しかった。いままでは点滴とかしてたから、出てこなかっただけな のか。マスクをかけていればなんとかなるか。 いまは普通に歩くだけでもちょっとしんどいが。2,3日で元気に なるだろう。退院日は未定。

さて、入院通信はここで終わることにします。4月始めにある医者 に映像上の<影>を示され、癌の可能性を告げられて以来、<死> は可能性ではなく確信としてわたしの内にありました。短絡的確信。 不安がそれを疎外しただけだとはいえるでしょう。将来の死の可能 性と言ってみれば、それは万人のものだ。死を所有してないと言い 張るひとの方が狂っている。であるとすれば、わたしの短絡的確信 の錯誤はどこにあったのか?数年後あるいは数十年後の死、前者と 後者のあいだに差異はあるとしても、わたしたちはいつもきょうを 無自覚に生きていくことしかできないのだ。

                    野原燐

(感覚的確信について)
通信(その2)で、ヘーゲルの感覚的確信について2行だけ触れた。 あれだけでは何のことか分からなかったと思います。若い友人のKH さん(男性)から二度にわたりメールをいただいたのでその文章の 一部を引用させてもらいます。KHさんありがとう。

|感覚的なものは、偶然的で多様で豊かな印象を与えるし、存在について強い充
|実を与えるように思うけれど、その実、その確信に対して現象論的な規定、つ
|まり、空間や時間の形式から考察を与えるとその充実が崩壊してしまうという
|ことがヘーゲルの言いたい事ですね。

なるほど。そういうふうに言われるとよく分かります。

|ある認識に対して普遍的な権利付けをヘ
|ーゲルは与えようとしているわけです。

「曲がった棒がある」といってもそれは<いまここわたし>に閉ざ
されている。もっと広い範囲の権利付けが必要だということですね。


|確かに。

|西欧の近代の文化に独自性があるとすれば、普遍性への意志を内在的なものと
|して、誰でも解るように(つまり言語を理解する能力のあるものすべて、すな
|わち、理性的存在すべてに向かって)、語ってみようということだろうと思い
|ます。
|「私自身の趣味」に過ぎないことを極力排除して、我と汝、世界と私の関係を
|支えているものを表現しようとしたわけですね。
|「曲がった棒がある」と言った場合には、ある棒の存在のあり方が語られてい
|るわけですが、その認識がどのような前提で成立するのかを検討するのが、哲
|学であるというわけです。必要だから、哲学者はそういう検討を行ったのです。

|どうしてそういう考察が必要なのかということは、「異文化」のことを考えれ
|ばすぐに解るようにも思いますし、また、YGさんと私のように異なった生活
|環境にいる人たちのことを考えればいいのではないでしょうか。哲学者たちは、
|来るべき他者との出会いを組織するために、自己の語りうることが出来るもの
|の限界付けを行ったのだ、と考えてみるといいようにも思います。


(以上引用部分がKHさんの文章)
ふーむ。「普遍」とか言われるとつい反感が先立ってしまうという 性癖が抜けなかったのですが、異文化に属する人とコミュニケート する必要性において考えればいいわけだ。なるほど。

(なお、野原のヘーゲルの読み方は限りなく無茶苦茶流でございます。 まあ、素人に分かる本じゃあないからしかたないか。)

追記:
入院の前日にメールアドレスをかき集めて送付したので、重要な人 が抜けていたり、野原もYGも知らんぞ何でこんなものが来るんだ? と思われた方もいるでしょう。 入院通信は今回で終わりますが、職場復帰まではまだ間がありそう なので次回からは<退院通信>とし、また何か書こうかとぼんやり 思っています。配布対象はこの間メールなどで感想などを下さった 方とします。ご希望のかたはいつでもどうぞ。ちゃんと書けるかど うかは分かりません。

それでは。再見。

リスト
6/30 語り得ない・・・  別名(1)
7/1  (2)
7/2  (3)
7/5  (4)
7/6  (5)
7/8  野原くんのよかった 別名(6)
本号   (7)


追記:
なお、
<退院通信>は1通も出せませんでした。
<入院通信>(後書き)を考え中です。  トホホ
(8.01現在)