ユナボマーの孤独な闘い


  概念集・別冊1の21ぺージ右の掲載資料に関連するアメリカの爆弾闘争実行者の容疑で
テオドア・カジンスキー氏が4月3日にロッキー山脈の中の小屋で逮捕された。
  95年8月にニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストが要約を掲載した論文「工業
化社会とその未来」については、簡単な報道記事のいくつかと、太田竜氏が刊行している
情報誌「マントラ」95年11月号の紹介と論評(一部を次のぺージ右に転載)を読んで見た
限りでいうと、232項目・三万五千語(前記紙は三千語のみを要約掲載)の主張の基本
は次のようなものである。
1)現代社会の経済的技術的基盤は人間の奴隷化へ向かっており、根底的に批判する。
2)既成の左翼的運動はこの経済的技術的基盤に依拠し、強化していくから否定する。
3)工業技術社会の欠陥だけの改良はできず、総体の打倒しか解決方向はない。

  報道関係者は爆弾闘争(の脅迫による論文掲載要求)に重点をおいて批判し、論文の内
容を論評していず、逆に太田氏は論文の紹介と論評はするが、掲載に至る過程への批評は
していない。この部分性は相互に補完し合っているので、ここでは論文掲載の過程、論文
の主張の双方に関して刊行委の見解をのべる。

xー論文掲載の過程について。

・すでに概念集・別冊1の21ぺージ右で、特に日本のマスコミが示している反発の仕方を
批判した。日本のマスコミは、脅迫による論文掲載要求に対して異和が強いようである
が、記事によれば、論文の掲載は捜査当局の指示によっておこなわれ、おそらく発想や
文体を手掛かりとして執筆者〜爆弾闘争実行者さがしの媒介とされた。それが逮捕の契
機になったという意味においては、日本のマスコミは、反発と逆の反応をしてもよいの
である。むしろ、今後も出現するであろう闘争主体にとってこそ、より本質的〜本格的
な試みに際しての教訓であるといいたい。

・マスコミに限らず、大多数の人々にとって爆弾闘争とか脅迫というイメージは、論議の
余地なく否定すべきものとしてあるが、そのような先入観をいったん取り払って、無視
されている少数者の意見に耳を傾ける姿勢の欠如が、そのような〈過激な〉方法をとら
せていることを内省する方がよい。〈過激〉と思われている人は皆、本当は心やさしい
のである。特として、やさし過ぎるために〈過激〉に見えるに過ぎない。

・今回の場合は、少数者の過激な意見というよりも、〈工業化社会とその未来〉という、
世界的に関心と共感を呼ぶ意見であり、このような論文掲載要求がなされるまで同水
準の論文を掲載〜論議することのなかった科学者、政治家らの責任は大きい。逮補され
たとはいえ、この闘争主体は掲載の意図を達成し、世界的に問題提起し得たといえる。

・しかし、これまでの部分的な資料からの判断ではあるが、あえて限界を指摘すると、
既成の科学技術による爆弾の製造、郵便制度や新聞の利用という行為は、既成の科学技
術や制度を否定する立場との関連を説得的に提起しつつ実行されたとはいい難い。

・論文掲載後に家族(弟)の賞金ほしさ?の密告によって逮補されたのは残念であるが、
これは自己史的な関係への対処の仕方に欠損があったことを暗示しているように思う。

yー論文の主張について。

・カジンスキー氏が論文の執筆主体であるのかどうか、一連の事件を実行したのかどうか
は、氏の発言としては確認できていないけれども、氏がこの論文を書いたと仮定してお
くと、報道による生活様式からは、ロッキー山脈の中の小屋に一人で無職のまま生活し
つつ、時々は数キロ離れた町の図書館で読書し、往還手段は徒歩か自転車で、郵便配達
車に乗せてもらったお礼に自分で作った野菜を渡すという姿が想像できて、好感を持て
る。しかし、この感触が論文からは殆ど伝わってこない。それは、論文の執筆者である
ことが他の人や権力機構に知られる可能性を少なくするという意味ではプラスであると
しても、それ以上の問題として指摘すると、

・氏は技術社会の対抗概念として自然を想定しているのであるが、対置の仕方、それぞれ
の内容規定がやや機械的に過ぎる。自然以上の自然を作り出しうる技術、その技術をど
のように、だれが作りだすかという問題が設定されていない。人間の生理や幻想過程を
自然として把握し分折する視点も論文(の要約)からは読み取れない。

・氏は60年代末以降の世界的な大学闘争をカリフォルニア大学バークレー校で体験してい
るようであるが、体験のストレートな記述は無理であるとしても、世界的に共通する大
学の矛盾、左翼運動の限界を実感と普遍性を込めて提起することは不可能ではないはず
であるのに、論文(の要約)からは読み取れない。

・論文の主張の基本として要約した前記の1)、2)、3)は、それ自体としては共感できると
いってよいとしても、氏が今後の革命のヴィジョンをフランス革命やロシア革命への肯
定的言及のレベルで提起しているのは同意しがたい。未踏の〈革命〉のヴィジヨンと方
法が求められているのであり、私たちもそれを追求しているのであるが…。


  アメリカの国家権力は、オウムに対すると同様に、氏に対しても死刑を自明とする報復
裁判をおこなうであろうが、それに対してもオウム裁判批判で提起した視点が適用できる
し、していくべき必然にある。オウム裁判において、披告人〜弁護人側から言及ずる形で
のみ可能であろうが、アメリカのユナボマーの提起した同時代的問題との共同審理を提起
したい。これが真の国際法廷の出現への接近の条件の一つであることはいうまでもない。

  なお、ユナボマーについて紹介〜論評した太田竜氏の〈マイナス・エントロピー〉の提
起は共感できるけれども、かれを「闇の世界権力が動かすエコロジー・テロリスト軍団」
に属するという反ユダヤ活動家らの評価を肯定的に紹介しているのは肯定しがたい。カジ
ンスキー氏の孤独な問いの質を止揚しうるような〈孤独な闘い〉が世界的な規模で私たち
それぞれに求められており、カジンスキー氏は、その動きの無意識的集合の象徴なのだ。


松下昇気付  刊行委員会(概念集・別冊2  〜ラセン情況論〜)〜1996・5〜
p33、34 より