時間論・序

 今年の11月に久し振りに神戸大学へ散歩に行くと、A430 (松下研究室)に関連して
大きい変化があった。このページ右の写真を、「神戸大学闘争史」や同・別冊に掲載した
写真と比べると明らかであるが、隣りのA429研究室を消去してA棟からベランダを経
てB棟への通路にしたのである。本来ならば、大学当局はA429研究室ではなくA43
0(松下研究室)こそを消去したかったのであろうが、それはできなかった。理由を推測
すると、これまでの松下らの再占拠闘争の記憶が強烈であるために、教養部廃止後の新し
い国際文化学部の発足時期にトラブルを起こしたくなかったのであろう。松下らの行動力
や動員力への過大?評価は少しくすぐったい気もするけれども、かれらの心配に根拠がな
いわけでもない。というのも、刊行委は、新しいパンフレットを刊行する度に必ず一冊を
A430(松下研究室)のドアに添付してある〈回覧自由〉の大封筒に入れ、なくなると
次々に補充してきているからである。特に「神戸大学闘争史」や同・別冊は、すでに10冊
以上が消えており熱心な読者の存在を想定させている。勿論、この熱心さは、私の表現活
動への異和の場合もありうる。〈回覧自由〉の大封筒や壁に添付したビラなどが引き裂か
れてゴミ箱に投げ拾てられていたことも何度かあり、休暇中に学生がいなくなると必ず撤
去〜破棄されてきた。従って、私が神戸大学へ散歩に行く時には、必ず予備の大封筒やパ
ンフレットを(その他の〈武器〉と共に)持って行くのである。
 先日も、このようにして出掛けたのであるが、5〜6月に刊行した表現集3および発言
集3を届けて以後は、批評集β篇3と4の刊行やIと2更新版のマスプリに時間がかかる
ためもあって、A430(松下研究室)へ届けるのが遅れていた。その間に、多分、夏休
みや学期間のブランクを利用して工事をすすめたのであろう。到着した私が、隣りの研究
室が消えて通路になっているのに驚きつつも、予測通りにドアから消えている大封筒を新
たに設置し直し、批評集β系の4冊は重すぎるので、回覧用に編集したコピー群を入れ、
一部を廊下の壁に添付していると、廊下を通りかかる学生たちが、初めは遠くから見てい
たが、私がベランダ側へ歩き出すと近寄って熱心に読み始めた。かれらが読んでいる途中
に批評を求めたり、解説したりするのは性急であると判断して、直接に話しかけることは
止めておいたけれども、かれらの存在自体が、遠くから警戒〜注目している事務職員や警
備員へのバリケードになっていたことをありがたく思った。
 ところで、廊下と反対側のベランダに出てみると、こちらにも大きい変化があった。以
前は窓の下の一郎だけを鉄板で覆っていたのが、窓のある部分全てを牢獄風の鉄骨で封鎖
し、窓ガラスも不透明で丈夫なものにしている。以前は、窓ガラスに外から白い粉を吹き
つけただけであったので、一円玉でこすると塗料がはがれて、中が見えたのであるが、今
度はガラス自体を青白い濁色にしている。ベランダに白ペンキで描かれ、空からもよく見
えた巨大な重層する{{{{{{ }}}}}}は完全に消去されている。


 このような情況は、時間論とどのように関連するか?
 前記の研究室の前の学生たちの時間性から発想すると、A430の逆封鎖や、それに交
差する事件は、自分が生まれる前のことである。禅の公案の一つに、自分の両親が生まれ
る以前の自分の本質は何か、というのがあるようだが、この公案に情況的に対応するテー
マをかれらが読み取りつつ生きていくことを願う。私たちも、それぞれに、それに対応す
る公案を見つけて格闘していきたい。このように考えて、この項目のタイトルに出会った
のであるが、〈公案としての時間性〉の他に、いくつかの時間のテーマが殺到してくる気
配があるので、それらを列記しておくと、

・時間論は、それ自体として論じるよりも、対極の空間論を生きる時に発生するヴィジョ
 ンから出立すべきではないか。前記の研究室空間からにじみ出る時間の液をしぼって飲
 む方法のように。
・対極の空間論という場合も、直ちに座標系や宇宙を想定せずに、例えば、私たちが、あ
 るものに到達するには早すぎるか遅すぎる、あるいは、私たちが何事かをなすのに性急
 すぎるか怠惰すぎる、という先行者たちの指摘を自分の軌跡に則して確認し、その場合
 の場や関係や条件の普遍性を追求したい。
・時間ないし時間論を意識するのは、危機が迫り、それに対処する瞬間ではないか。その
 意味では、概念集2の〈瞬間〉の項目は、私たちの情況が意識〜無意識に関わらず危機
 に直面していること、しかも対処の仕方自体が危機的であることを指摘していた。


 丘陵を下りながら、この二十年あまりの時間把握について、以上のことをぼんやりと考
え、時の楔通信第〈12〉号(85年8月)で監獄における時間の流れ方および耐え方を論じ
ていたことを想起していた。(このページ右参照)この時に記したテーマは今も応用可能
であることを帰って再読して確認し、このテーマの拡大として、活動ないし闘争の過程に
おける時間の訪れ方で私にとって印象的なのものを次のようにまとめてみた。

αー秩序からの繰り返し(例えば大学における入学試験、一週間毎の時間割。裁判所にお
 ける公判期日など)に対して何かを準備しようとする場合には、時間を支配している者
 に比べて圧倒的に無力な自分の位置が複雑な感慨と共によく判ってくる。このレベルの
 時間の流れの転倒の困難さに取り組もうとする態度の有無が69年への分岐点である。

βーαへの対峙の過程で、自分の活動の軌跡自体が自分を支えたり、逆に規定ないし拘束
 してくる場合がある。(例えば、前回このようにおこなったから今度も何もしないわけ
 にはいかない、というように。)この規定ないし拘束性の時間から自由に振る舞いつつ
 αへの対峙の質を落とさない場合にのみαをはみ出す領域でも成果がある。

γーαやβの動きとは別に、予測できないまま突然やってくる時間があり、繰り返しの不
 可能性を特徴としている。(例えば無意識の内に法廷をシンポジウム化する酒パックを
 飛翔させている瞬間や、ある新しいヴィジョンの発見、共闘者の死など)


 前記の時間系列に関しては、αの時間の転倒不可能性とγの時間の繰り返し不可能性は
対称的であり、これを同時に対象化していく場合にβの時間は創造的な意味をもちうるの
ではないか、と考えている。そして、私がここでのべている時間の流れ方、出会い方に対
応する、さまざまの人や集団や関係の時間の流れ方、出会い方と交差させつつ、普遍化や
具体的応用を試みていきたい。

 私は基本的には、このようにして時間を論じていくつもりであるが、一方、これとは別
の論じ方への空白を対等に残しており、その空白がとらえた別の時間論を、提起者をあえ
て明示しないで要約してみる。私が関心をそそられたのは、


・ブラックホールの中では時間と空間が入れ変わる。
・エントロピー増大方向を時間軸に代わる測定基準とする。
・物理学の基礎方程式の中で時間 tを-tとしても不変であるものの系列を一般化する。


 これらは、既成の科学体系で論じていくことができるが、既成の科学体系では論じえな
いものとして次のものに注目している。
・超古代の(日本国家成立以前の)カタカムナ人にとっては、時間(トキ)と空間(トコ
 ロ)は共通の初原量の別の現象形態として把握されている。
・不破定性原理の行き詰まりに象徴されている現代西洋科学は、東洋や日本の深層にある
 階層の視点を導入することによって突破しうる。


 それぞれの、また、この他の様々の時間論に注目していくつもりであるけれども、私と
しては、時間論自体の内容よりも、時間論をおこなうことにより何をどのように変化させ
ようとしているか、その意識や行為が既成の概念をどのように解体〜再構成しているかに
最も注目していくつもりである。従って、先述の時の楔通信第〈12〉号、概念集2の他に
も5で〈電報の速度〉、7で〈なぜ69年を基軸にするか〉、9で〈権力の時間把握を転倒
するために〉を論じてきた。

 このような私の論じ方の原点はどこにあるか、考えてみると、やはりバリケード空間で
の息づかいに行きつく。眼前のテーマが切迫している時、何度も、空間の原点は設定しや
すいのに、時間の原点は設定しにくいのはなぜだろう、と考えていた。宇宙創生のビッグ
バンなどはどうでもよかった。そして、空間の原点を意識した瞬間が自分にとっての時間
の原点でもあり、自分を含む全ての存在が時・空間の原点を意識し始めることが革命の開
始条件の基本である、という過渡的結論に到達した。そして、それに対応して、時間概念
を用いないで時間を論じる重要性を、このページ右に転載した表現によって示唆されつつ
ある。そして、様々の時間論を、それが〈 〉をどのように把握しているかによって区分
し吸収し、応用していきたい。各人〜各存在の〈 〉論を期待〜歓迎する。

概念集・11 p26〜28