概念集・8
(後半)
(表現過程としての医療空間)
〜1992・11〜
刊行委員会気付 松下 昇
(web掲載 刊行委員会気付 野原 燐 2008.3.11)
食事メニュー
概念集2の〈メニュー〉で監獄の、7の〈母子サルのゲリラ戦〉で学校給食のメニュー
にふれて論じていた時にも病院の食事について
意識していたのであるが、予想より早く実
際に体験することになった。
まず、集団的に出される食事の味つけからい
うと、監獄では濃く、病院では薄い。学校
は中間にある。ただし、病院では、患者の状態
によって次第にふつうの味つけにもどり、
かつメニューが何段階もの組みあわせから構成
されているのが特徴的である。栄養や消化
の点についても、よく配慮されているであろう
ことを推測できる。このような食事のあり
方を学校へ、さらに監獄へ波及させていくこと
が必要であろう。
その上で、病院の給食の欠如点(1)と良さの限界(2)についてのべてみると、
(1)例えば、数日の絶食の後で出されるメ
ニューに、おかゆとミルクとジュースという
のがあったが、栄養計算においては規定を満た
しているとしても、組み合わせがよくない
と感じた。学校給食でお茶を出さずにミルクを
のませる無神経さを想起させる例であるが
和風のおかゆ系統と洋風のミルク・ジュース系
統のものを、少なくとも私は絶食後の飢餓
状態であっても同時には食べたくない。いや、
食べるとしても、食品の組み合わせによっ
て、もっとおいしく食べたいのである。このよ
うなアンバランス性は病院給食の全体につ
いていえるように思う。また、点滴か食事か、
会事メニューの段階・種類をどうするかに
ついての決定権は病院側にあるが、これも患者
の意見を対等に採用し、かりに医療上の理
自から困難な場合にも、その理由を正確に示し
て了解を得るのが原則であると考える。
(2)給食の中で現段階で最も患者のためを考えて実施されているようにみえる病院給食
においても、乗り越え難い壁がある。かりに、
患者が白米ではなく玄米を食べたいといっ
ても、玄米を一人分だけ炊くと食事をつくる労
働をふやすことになるので認められ難い。
また肉食はしないと主張しても栄養上おなじ蛋
白質を植物から摂取するようなメニューは
準備されていないので認められ難い。そうなる
と、患者は給食で出された食事を殆ど食ベ
ずに共闘者の手数をかけて差し入れてもらう他
なくなる。そのような食べ方さえ病院であ
るからこそ可能なのであり、学校や監獄では更
に不可能性の度合が増していく。
(1)に関連する問題は、食事をたんなる栄養
上の視点からとらえないで、患者の心身に
感覚的なエネルギーを補給する素材としてとら
え、患者側の意見を対等にメニュー作成に
生かしていく方針の未成立として批判し続けた
い。(薬品使用への過剰な依拠も)
(2)に関連する問題は、より医療のあり方の限界に関わってくるように思われる。玄米
や肉食のテーマは個々人の趣味というよりは人
間の食生活・身体把握の自主管理の断面と
して現われているのであり、今後の文明や社会
のあり方の中で問われるべき本質をもって
いるからである。食事について問題にしている
ことは、医療テーマ総体について問題にし
うることの縮図であるといえる。
以上のことは、病院側の欠如点ないし限界と
して論じているように聞こえるが、実は患
者側の責任も対等にある。一つは何事も病院に
任せてしまう姿勢(たんに身体的に不可能
というよりは、これまでの健康な?状態の時の
非主体的な生き方の延長〜拡大として現わ
れてくる。)であり、もう一つは食事・身体の
把握に関する惰性(現段階の文明が与える
パターンを最上とみなして自分の感覚を合致さ
せようとする態度)である。概念集の前記
の項ですでに提起したことを踏まえて、ここで
改めて提起すると、
(1)監獄で最も剥き出しの形態でなされているような、残飯を豚に食べさせ、その豚を屠殺
して収容者に食べさせるというサイクルに象
徴されている、他の生物の生命を犠牲にす
る食事の仕方の廃止。食べる者と食べられる
者が共に生命を解放しうるメニューと調理
方法の発見。(この視点からの医療方法の再
検討)
(2)他の生物の生命を犠牲にする食事の仕方の廃止が直ちに困難であるとしても、その困難
さを、つねに共同の討論のテーマにしてい
く。(とくに学校と病院で)また、他の生物
の生命の全体を損なわずに一部(例えば植物
の葉だけ、実だけ)を食べる原則を確認し
全員が食べ物の入手・栽培・調理・後片付け
に参加する。
(3)家畜制度の廃止。植物栽培における農薬使用の廃止。関連して、これを肯定する文明や
社会形態(現在の監獄や学校や病院を含
む。)の批判と解体。最終的には全ての生物の
対等な生き方を実現するコンミューンの創
出。
これらの実現が、いや提起でさえも極めて困
難であることや、支配秩序からだけではな
く、大衆の大多数からの反発に出会うであろう
ことは了解しているが、このテーマをウイ
ルスのように人類の間に拡げていくべき最終的
段階にあるのではないか。ウイルスの比喩
を持ち出したが、ウイルスは人類の文明の変換
点ごとに登場する、地球外からの差し入れ
なのかも知れない。
入院中には、共闘者に無理を承知で(タバコ
の他に)いろいろの差し入れをお願いし、
食べ物では、クロワッサン、バナナ、トマトケ
チャップ、豆腐、昆布などの佃煮などが、
心身に力を与えてくれた。食べ物ではなく、差
し入れでもないが、病室にもってきていた
だいたもので私の心身の均衡を最もよく調和さ
せてくれたのは、陶器の風鈴であった。寒
がりの老人たちへの配慮からも病院側は冷房を
止めることが多い暑苦しい日々に、窓から
の微かな風で鳴る風鈴は不思議に涼しい気分を
かきたて、巡回してくる医師や看護婦の人
達も、偶然に身体が風鈴に吊るされた短冊(*)に触れて鳴ったりする瞬間には、ハッと
したように見上げ、職業的な堅い表情を和ませ
た。そして私もそういう機会をねらって、
いろいろ要求や質問をして成果を収めることが
できた。この項のタイトルとの関連でいえ
ば、メニューには口から摂取する食べ物だけで
なく、感覚の総体への〈食べ物〉、とくに
耳から聞く響きを取り入れる方がよい。ただ、
耳からといってもイヤフォーンで聞くもの
やTVの音は逆効果であり、静けさの持続の中
で不意に訪れる素朴な原初的な響きこそが
心身を癒してくれるのである。これは食べ物や
人間についてもいえる。
*
(短冊には〈生涯現役〉と記されてあり、その紙片の揺れを糸を通して感じとり風鈴
の釣鐘状部分を中心から刺激して音を発生させ
る小さい個体片を〈舌〉という。)
メデュトピア
―新しい医療のヴィジョン―
タイトルの成立過程や意味については「〈わ
るいもの〉概念の変換」の項を参照してい
ただきたい。この項ではタイトルを一つの媒介
としつつも、より自在に現在の医療のあり
方を否定的にとらえることによって、新しい
ヴィジョンへの方向を模索してみよう。
(1)戦争―闘争―日常…のそれぞれの場面で
の負像や死、それをめぐる医療を私はかいま見
てきた。45年空襲での焼死者たち、60年
安保閾争での樺美智子、76年〈 〉過程での松
下未宇が、それぞれ最も印象的である。共通
点としていえるのは、それらの死者たちは
私の代りに死
んだことと、医
療の手が届かない場所で死んだことである。私の代わりに
(x)と、医療の手が届かない場所で(y)
は切り離すことはできないけれども、今は
(y)を
軸として考えてみる。この状態が不幸であったとか、手を届かせることのでき
なかった医療に責任があったとかいうのでは
ない。むしろ、この状態との距離の無限性
に気付くことが、医療のみならず、人間のあ
らゆみ試みの原点ではないか、といいたい
のである。とはいえ、これは私の体験に基づ
く内的な原則〜判断基準であるから、その
まま普遍的に提起するつもりはない。いくら
か普遍的に提起したいのは
〈病気や負傷に際して、まして老いてきたか
らといって、医療してもらうのが当然だ、
と考えるべきではない。〉ということであ
る。
(2)前記の提起は(1)の体験に基づくだけ
でなく、より情況的な確信に基づいている。
大学の機構、それを許容する支配秩序が依拠
する知の体系。
専門的な職業分野への内閉、生活至上意識へ
の居直り。
これらの現状の矛盾を批判してきた位置から
は、これらの矛盾が最も深く、放置されて
いる医学の医療を無批判的に受けることはで
きない。もし、過渡的〜仮装的に医療を
受けるとしても、受ける過程での問題点を把
握〜開示しつつ、関連するテーマ群と共に
止揚の対象としていく場合だけである。これ
さえも、何かを犠牲にした大きい特権であ
るのだが…。このような視点から具体的に提
起しているという確認の後で、あらためて
〈チューブ状の身体〉や〈さめたあとの夢〉
の項でのべたカルテ、診断書、医療点数表
などの共同作成の提起を把握していただきた
い。
(3)しかし、どのような批判も提起も、次の条件を潜ってのみ持続力と普遍性をもつことが
可能であろう。一つは、死や身体〜存在の領
域のテーマを対等に追求しうる共同的な関
係性を、家族や職業のレベルを超えてつくり
出していること。もう一つは、そのように
努力する過程で不可避的に現われる実現の困
難さへの絶望、内部の分岐に対してどのよ
うに対処するか、の方法を明示していること
である。これができない限り、69年以降の
情況をふまえた試みとなりえないのは自明で
あると考える。
前記の方向で医療の場に身体レベルで対処し
ていく場合の具体的テーマ群の不可欠のも
のとして私が体験し、このパンフでとりあげた
各項目があると考えている。今回は取り上
げていないが論じる必要のあるテーマを列記し
てみると、〈いたみ〉、〈非・自然死〉、
文明の変換を暗示する病気としてのエイズ、
〈脳死〉と〈内臓移植〉、〈人工生命〉など
がある。これらは、パンフの構成要素として並
列的に提出しない。まだ充分に論じる準備
がないというよりは、今回の入院体験の身体レ
ベルとパンフ作成の軌跡が交差を必然とす
る項目のみをまず提出し、提出の仕方を私や読
者が今後の医療過程で応用し更新していく
方が、より〈メデュトピア〉的であると考えた
からである。
ここまで記した時に、ガンで春から入院していた宮内康氏が10月3日に死去されたとい
う報せを数日おくれて聞いた。氏の生きた軌跡
については〈一九九一年六月二十日の討論
記録〉でのべているから繰り返さないが、概念
集シリーズの契機の一つになった「ワード
マップ 現代建築」へ私が三つの項目(〈バリ
ケード〉、〈法廷〉、〈監獄〉)を書く機
会を作っていただいたことへの感謝をあらため
てのべておく。概念集の中では5の〈肉体
と身体に関する断章〉で氏の表現を引用して論
じている。死去の報せを聞いて氏の71年5
月の〈闘
争宣言〉が、新しい医療(という以上
の、新しい生死のあり方)のヴィジョンに
対して投げ掛けている重要な示唆に気付いた。
〈闘争宣言〉の主要部分の引用を繰り返す
と「彼らは未知を恐れる。彼らは彼らのレール
のすぐわき、彼らの肉体のすぐ隣に、ある
絶対的な闇があることに気づかない、否むしろ気づ
こうとしない。」(全文はこのぺージ
右に転載)ここでいう「彼ら」とは、学生の提
起に耳をかさず、心を開かず、自分の生活
と理解できる範囲内の世界に閉じ籠もろうとす
る大学教員である。宮内氏は、そのような
教員と逆の(というより本来の教育者として
の)生き方をして「彼ら」から追放された。
「ある絶対的な闇」の表
現を氏は意識的におこなったのではなく、〈闘争宣言〉を書い
ている過程で半ば無意識のうちに表現の方から
やってきたのだ、と私は確信している。そ
して、氏は、この〈闇〉をかいまみた瞬間に、
個々の具体的な「彼ら」などを遥かに超え
る領域のテーマへ踏み込む契機を手にしてい
る。それ故にこそ、この表現は無数の具体的
な闘争から生じた表現群の中で持続的に示唆を
与え続けているのである。私にとって、こ
の二十年そうであった。そして、入院を媒介し
て示唆は更に深まっている。すなわち、私
はこれまで主として幻想性ないし関係性のレベ
ルで「ある絶対的な闇」を追求してき
たと
いえるが、今後は肉体〜身体〜存在のレベルに
おいても応用しうること、それによって双
方のレベルであらゆるテーマを包囲していく可
能性〜必然に気づいたのである。そして、
これは〈メデュトピア〉の追求していくべき課
題とも一致しているはずである。この追求
を宮内氏と共に展開しえないこと(また、氏が
ガンになる数年前から準備作業を氏に提起
しえなかったこと)は痛恨の極みではあるが、
氏の分まで今後やっていくことを心に誓う
他ない。なお、氏が生涯の最後の数年を東京
(山谷)の自主的建築である労働者福祉会館
の設計に全力を傾注し完成させたこと、この三
階のバリケード風のビルの一階には山谷で
困難な生活を続ける人々に開放されている医療
相談室と食堂があることを付記しておく。
屋上からの光景
人院期間の後半、手術後の回復しつつある時
期に、まだ階段を昇降できなかったので、
エレベーターに乗り込んで屋上から病室のある
階へ降りてくると、別の階から乗ってきた
医師が「屋上には洗濯場があったと思うけど、
まだ洗濯は無理ですよ。」といった。確か
に屋上には洗濯場もあるのだが、私には洗濯物
の干し場に魅力があったのだ。洗濯物が飛
ばないように金網で覆われているとはいえ、そ
れを通して日光と風が届き、当分乗れない
電車が走るのが見え、川岸のずっと向こうの山
々の感触が伝わってくる。この病院では、
回診や検査などの時間帯以外ならいつでも自分
の判断で屋上へ来ることができるので、心
身の回復に大変役立ち、たまにやってくる他の
患者との会話も楽しかった。病院は勿論の
こと、拘束施設の全てにおいて、屋上ないし、
それに対応する場所の使用を管理者に認め
させていくべきであろう。
かつて獄中にいた時に、拘禁症状を示した人を何人か見ており、自分も無縁ではないと
実感したことがあるが、それらの人を屋上で昼
寝させるか、あるいは鉄格子つきの車でも
いいから乗せて海岸へ連れて行き、しばらく停
まっているだけでも随分よくなるのだが…
と考えていた。監獄の管理者は屋上から内部の
建物の配置を見られるのを死ぬ程恐怖して
いるから、空だけに顔を向ける昼寝といってや
るのだが…。海岸で労役としての海草や貝
の採取をさせれば監獄の経営やメニューの向上
にも役立つではないか。
ここまでの記述ですでに示されてもいるように、私は大抵の場合、眼の前の光景よりも
その向こうへ視線を届かせてしまう傾向がある
けれども、病院の屋上からの光景は私のそ
のような傾向を揺り戻し反転させるほどの質を
帯びていた。近くを流れる武庫川はそれほ
ど大きくはないが、前に神戸の港湾博物館で見
た大阪湾の立体的な海底地図によると他の
大きい川よりずっと深い溝を海底に刻みつつ太
平洋へ流れ込んでおり、それを思いだしな
がら堤防の木々を眺めていると何故か元気づく
し、遠くの六甲山系が麓の神戸大学構内か
らは把握できない総体性のヴィジョンを示して
いるのにも気付いた。このような瞬間を何
度か経てからやはりその向こうに視えてきた光
景のいくつかを書きとめておきたい。
媒介になるのは、武庫川の上流にある、六甲山系の中ではここから最も近くに見える甲
山(かぶとやま)である。この山からは三つの
連想を誘われる。
(1)万葉集の頃から瀬戸内海を行き来する船の目印にされる程の特徴的な山であるが、地質
的には砂岩を人工的にピラミッド風に積み上
げて造成した可能性が大きく、超古代の宇
宙船の発着場であったのかも知れない。山の
南にある寺の名が神呪寺(かんのうじ)と
いうのも何か不気味かつ関心をそそる。
(2)山の東にある関西学院大学での69年2月始めのバリケード死守闘争は、直前の東大安田
講堂死守聞争に比べて報道量がずっと少ない
ためあまり知られていないが、質的には、
より激烈な展開を示した。屋上に追い詰めら
れた学生らは厳寒や飢えや催涙弾攻撃に耐
えて二日間を戦い抜いたのであった。その時
の参加者の一人が、屋上にトイレがないこ
とが闘争の位置と意味を象徴していた、と
語っていたのが強く印象に残っている。
(3)読者諸氏も予測しているように、甲山の西にあった甲山学園で74年3月に生じた障害児
二人の死亡(甲山事件)である。概念集でも
何度も論じており(1の〈反日〉、3の
〈差し戻し〉、4の〈第n次作品〉など)、
これらの項での表現こそが死者や被告人や
支援者に対する唯一の共闘的提起であるのだ
が、この提起に応じることはかれらのだれ
にもできないのではないか、その不可能性を
こそ〈甲山〉事件と呼ぶべきではないか、
と病院の屋上であらためて考えた。私にそれ
らの提起を可能にしたのは76年に六才でこ
の世を去った〈精神障害者〉の松下未宇であ
り、私がかれよりも半世紀も遅れて生きの
びているように、私の提起が多くの人々の
〈常識〉になるには、世界がまだ存続すると
しても、全ての当事者のいなくなる半世紀後
かも知れない、このズレをどのように突破
すれぱよいのか、とも考えた。
関連して、死者の位置の分布について感じたことを記しておくと、〈新しい医療のヴィ
ジョン〉の項で死者の位置を前紀の松下未宇、
安保闘争の死者、戦争中の空襲による死者
という三つを例として取り上げたが、これら
は、ある意味で取り上げやすい死であるとい
える。これらの対極に甲山の園児の死や、党派
闘争の死や、ゲリラに攻撃された侵略兵士
の死があり、むしろ、これらの取り上げにくい
死や、対極間に含まれる膨大な無数の無名
の死に向き合う媒介になりうる度合だけ、始め
に言及した死者に私は言及し続けることが
可能であろう。この意味からも、甲山の園児の
他に、党派闘争や侵略兵士について屋上で
考えたことを記しておく。
69年3月1日事件は、日共に対する反日共系の党派闘争であり、新左翼内の殺害を伴う
党派闘争に比べて古典的ともいえるレベルにあ
るのは確かであるが、それでも概念集2の
〈無力感からの出立〉でのべたような衝撃を私
たちに与えた。この事件が今回の入院過程
で再び想起されたのは、私が緊急入院した病院
の系列は実は共産党の経営下にあり、前記
の3.1事件の〈被害者〉(かつ検察側証人)
の日共幹部は、3.2に機動隊出動状況で
釈放された後すぐに、私が手術前に検査を受け
たのと同じ神戸市内の病院へ緊急入院した
からであった。(神戸大学教養部広報第30号
74ぺージ参照)私は自分を含めて3.1事件
の〈被告〉側が、このような医療空間(や、そ
れを可能にする持続的活動)に対置しうる
場を形成しえていないことを反省し残念に思っ
たことをはっきりのべておきたい。自分た
ちが戦場で性交渉を持った従軍慰安婦と現在世
話をしてくれる看護婦を比較し合う老人た
ち(元兵士)の会話を屋上で耳にした時の怒り
や絶望を交えた情念と共に。
しかし、それでも最後に屋上の楽しい祝祭の光景について記しておこう。滅多にないこ
とだが、ある日のタ方に見舞いの人が五人も重
なり、屋上に出た。洗濯干し場にある壊れ
たテーブルやいすを組み合わせて即席の宴会場
が作られ、玄米スープやスパゲティーやコ
ーヒーなど、病院の給食には出ないメニューが
並べられて、私は夢中で飛びついた。ふと
気が付くと食べているのは私だけなので我なが
ら呆れてしまったが、二十年以上たって久
し撮りに再会した人を含む食事は、包囲下のバ
リケードの中で食べた差し入れを想起させ
てくれた。回復のリズムが、この祝祭のタ方か
ら早くなったこともつけ加えておく。
一人は万人のために、万人は一人のために
私の入院した病院は医療生協の系列にあり、
それまでも買物は主として消費生協でして
きたので、それぞれの機関紙やパンフレットの
中に〈一人は万人のために 万人は一人の
ために〉という標語があるのをよく見かけて
も、あれは例の奴だな、という程度に軽く読
み過ごしていた。しかし、入院して重い本を顔
の上に捧げ持って読む元気もないままにベ
ッドに横たわっている期間に、あの表現には、
ずっと以前どこか全く遠いところで出会っ
ていることに気がついた。そして、それを思い
出すことを読書の代りにしようと考えた。
しかし、なかなか思い出せないので、まず、あ
の標語が標語になる過程や、だれの表現で
あるかということを確認してみようとした。何
人かに質問してみたが知らない場合が殆ど
で、推測的な答もバラバラであったので、思い
切って機関紙の発行者に問い合わせてみる
と、さすがに活動に専念しているだけあって、
由来の資料のコピーを届けてくれた。
兵庫県生活協同組合連合会が発行している「協同組合 あんな話 こんな話」20〜24ぺ
ージの記述(古野健治氏…約20年会っていな
いが、神戸大学闘争に積極的に参加した一人
である。)によると、〈一人は万人のために
万人は一人のために〉は、世界的に協同組
合運動の他にも多くの社会運動の標語として使
われてきた。ソ連のエイゼンシュタイン監
督による映画「戦艦ポチョムキン」(一九二六
年)ではレーニンの言葉として紹介されて
おり、北朝鮮では金日成の建設スローガンとし
て知られている。日本の生協運動において
は、一九二五年にシャルル・ジード(作家アン
ドレ・ジードの祖父に当たる経済学者)の
協同主義の標語として「一部は全部のために、
全部は一部のために」と紹介され、一方、
神戸の灘購買組合(灘神戸生協の前身)では一
九三二年の月報から「一人は万人の…」の
標語をドイツの経済学者シュモラーの言葉とし
て掲げている。
これらの使用例や言及された人々の活動の時
期よりもずっと早い押世紀の前半に文学に
出てくることを古野氏は指摘している。それは
アレクサンドル・デュマの「三銃士」で主
人公のダルタニアンが仲問に「全員が一人のた
めに、一人が全員のために」と誓いを求め
る場面である。この作品は一八四四年に発表さ
れているが、同じ年にイギリスのロッチデ
ール公正開拓者組合(消費組合の原型)が設立
されており、何らかの関係があるのかも知
れない。ともかく、古野氏により使用例の最も
古いものは一八四四年のデュマであること
が判った。
さて、国際的に多くの分野で標語とされてき
ている〈一人は万人のために 万人は一人
のために〉は、各国語では、このベージ右のよ
うに表示されている。一九三○年段階の日
本語では〈万人のため・各人のため〉となって
おり、日本語としての訳し方に振幅がある
ことは、他国語の場合にもそうでありうること
を示唆している。ついでに少し判る範囲内
で他国語の標語ををみると、
〈我為人人・人人為我〉(中国語)
〈Each for All and
All for Each.〉(英語)
〈Einer fur alle,alle
fur einen.〉(ドイツ語)
これ以外の言語による比較、ここにない言語による表現は、読者諸氏の協力を得ながら
やっていくとして、ここでは次のことをのべた
い。入院後の薄明の意識の中で、60年代の
初めに同じ表現に出会い、深い印象を受けてい
たのを思い出したのである。私の読んだも
のは、ドイツの詩人へルダーリンの書簡体の小
説「ヒュペーリオン」(一七九七年)にお
ける主人公の言棄としてである。退院後に読み
返しながら記すが…
主人公のヒュペーリオンは、フランス革命に対応する情況を作品の中で再現しつつ、舞
台をギリシャに設定し、トルコに対する独立戦
争に身を投じる過程で恋人ディオティーマ
へ次のように書き送る。
「一切は各人のため、各人は万人
のため。この言葉には喜びにみちた精神が宿っている。
そしてこの精神は現にいつも私の部下たちの心
を、神々の命令のようにつかむ。」(手塚
富雄訳)ドイツ語の原文では、傍線の部分は
Alles fur jeden und jeder fur alle.
であるが、一九三○年段階のドイツ語の表現を
もう一度ここに併記し、比較してみよう。
Einer fur alle,alle fur einen.
へルダーリンの表現では、前半と後半が逆であ
り、コンマの代りにund(そして)、
Einer(英語の。oneの1格)や
einen(4格)の代りにjeder(英語のeachのl格)
やjeden(4格)を用いている。英語の語
感から類推できるように、へルダーリンは
「一人」の意味を、同質性の一つ一つの個体の
集合としてよりは、多様な各人の自立した
結集単位として表現しているようである。とこ
ろで、 の訳の冒頭が
「万人」ではなく、「一切」となっているのは
少し奇妙な感じを与える。しかし、これは
誤訳ではなくAlles (英語のAll
に対応し、〈全ての物・全ての者〉を意味する単数形
1格)の正確な訳である。もし〈全ての人々〉
を意味させるならば複数形のAlleが
ふさわしいことにへルダーリンが気付かなかっ
たはずはない。後半の最後の単語が〈全て
の人々〉を意味する複数形4格である以上、前
半との調和への感覚からも、そうである。
この奇妙さの理由づけとしては、かれが、人間
を含み、超える総体からの力を主体に引き
寄せつつ万人に応用しようとしているため、と
もいえるし(このぺージ右の図を参照)、
あるいは、次の文で「この言葉には…」と、や
や距離を置いていい直しているニュアンス
から、「この言葉」は、その段階で既に出現し
ていたものの引用である、ともいえる。も
し、引用であるとすれば、どこからであろう
か?いずれにしても、いま判っている最も古
い文学作品(ないし文字表現)の使用例として
ここに提出しておく。この表現が時期や地
域によってかなり変化しうること、多様なテー
マに応用されうること、つまり、無意識的
かつ潜在的な共有表現であることにも注目し続
けたい。
私たちは、これまで、このような標語を提起
しえているだろうか、また、この標語を今
そのまま多様なテーマに応用する気にならない
のはなぜか、という自問がやってくる。
生協運動はともかくとして、保険業界やラグビーなどでも、この標語が用いられる程に
水で薄められてしまっている軌跡を批判するた
めにも、ヒュペーリオンのその後について
記しておかねばならない。独立の戦いに参加し
たかれは、始めのうちは人間と希望の偉大
さに酔いしれていたが、次第に現実の経過が自
分の想定したものと異なった方向へ逸脱し
ていくのに気付く。とくに兵士たちが、独立の
戦いを支持している民衆に対しても略奪・
暴行を働くようになってからは、戦場から離れ
て恋人ディオティーマのいる所へ戻る。し
かし、かの女は、かれの不在中に病気で死んで
いた。もはやギリシァに何の希望も見出せ
なくなったヒュペーリオンは、北方のドイツへ
やってくる。(以下は私の試訳)
「そこで私はドイツ人の中へ入って行った。
〔…〕故郷を失ったエディプスがアテネの町
の門に近づいた時のように控え目な態度で。エ
ディプスの場合には神々の森や美しい魂の
人々がかれを迎えてくれたが、-私の場合は何
と異なっていたか。昔からの野蛮の民は、
勤勉と学間により宗教によってさえも前より一
層野蛮になった。〔…〕ドイツ人ほど支離
滅裂な国民は考えられない。職人はいるが人問
はいない。哲学者はいるが人問はいない。
僧侶はいるが人間はいない。身分や年令の差を
誇示する者はいるが人間はいない。-これ
ではまるで、身体の各部分が飛び散り、流血が
砂を浸している戦場のようではないか。」
「きみたちの詩人たち、芸術家たち、美を愛す
る人々を見ると私は胸が張り裂けそうにな
る。〔…〕愛と魂と希望に満ちて、かれらは民
衆の役に立とうとして成長していく。しか
し、七年たってかれらを見ると、亡霊のように
ひっそり寒々とさまよっている。〔…〕か
れらが何かを語る時、その意味が判る人は気の
毒だ。というのも、突進する巨人プロテウ
スのような力と技を尽くして戦っているにもか
かわらず、かれらの戦いの絶望的な結末と
かれらの美しい魂が敵のために発狂させられて
いる姿しか見ることができないから。」
ヒュペーリオンによる激しいドイツ批判は、
ドイツにおける最も優れた詩人の一人であ
るへルダーリンの叫びであり、二百年を越えて
〈日本〉の批判をせざるを得ない私たちに
迫ってくる。へルダーリンは、前記の作品を身
をもって生き、この作品後の長い半生を、
発狂の薄明の中で孤独に過ごした。七三才で死
んだのは一八四三年であり、その翌年には
三銃士が誓いを立て、イギリスで世界最初の協
同組合が設立される。その後、多くの国々
で生協運動や社会運動のスローガンとして〈一
人は万人のために 万人は一人のために〉
が存続していくことをへルダーリンは知ること
はない。しかし私たちは、この言葉の基底
にあるパトスがかれによって共有されていた事
実とその後の絶望的な生涯を今こそみつめ
たい。そして、一人のへルダーリンは万人の
〈へルダーリン〉のために生き、表現したの
である以上、万人の〈へルダーリン〉は一人の
へルダーリンのために生き、表現していく
位置にあるのではないか。その際に、かれの絶
望的な生涯と、そこからの情況批判の意味
を、私たちの現在の情況の中でとらえかえし、
へルダーリンに対応する新しい表現として
提起することが不可欠であると考える。
入院中の各テーマの展開
六月十八日から八月十五日の入院期間にも
69年以来のテーマとの格闘は持続していた。
心身の条件から直ちに対応することができない
もどかしさはあったが、同時に、そのよう
な状態でしか視えない問題の拡がりをとらえた
り、逆用したりすることもできている。こ
こでは、その中のいくつかを素描すると…、
(1)四月二八日に神戸大学闘争に関わった五
人が久し振りに出会う機会があり、概念集など
のパンフレットを刊行してきたコピー機のあ
る場所や、神戸大学構内などを移動しつつ
おこなった討論記録を軸として松下は新しい
パンフレットの刊行準備をすすめ、原案を
各参加者に届け、構成や記述に関して訂正・
提起を要請していたが、刊行自体へのため
らいを感じる人の応答がないために最終的な
刊行をなしえないまま入院してしまった。
しかし、それらの人が見舞にきてくれた病室
で、刊行のテーマを包括する、より大きな
テーマ群に関しての〈遺言〉位相での対話を
することができ、そのことを通じてパンフ
をより根底的な視点から刊行していく作業も
進展している。時間的には、この概念集8
が先になるが。
(2)84年12月17日に東京高裁法廷で生じた事件(批評集α篇参照)の刑事裁判の許訟費用を
納入していないので(α続篇参照)、東京高
検の委託を受けた神戸地検が五月末から六
月にかけて強制執行の措置をとろうとした
が、松下からx―判決未確定を根拠とする訴
訟費用納入告知取消申立(最高裁あて)、
y―以前から実行中の神戸拘置所の収容者全
員への図書寄贈用のダンボール10箱分(私
のプランへの共鳴者からのカンパ)が神戸拘
置所から受け取れないと返送されてきたの
で、これを訴訟費用分の物品として強制執行
し、国家機関としての拘束施設で応用せよ、
という逆提起、z―次項(3)の留置品の中の
本、ふとん、冷蔵庫なども大学地下倉庫から
強制執行しうる、という補充をベッドから
の文書で連続しておこなうことにより、現在
まで検察庁はこのテーマに関する機能を解
体されている。
(3)京都大学A三六七空間の明け渡し強制執
行は、松下が東京〜大阪で長期的に獄中にいた
時期である85年2月1日に強行されたが
(時の楔通信第12号参照)、今回も松下の入院
を利用するかのように、8月7日付で執行官
から、前記の強制執行時に留置した私物を
引き取らなければ廃棄するという通知がき
た。(直ちに引き取れない意味については概
念集3の〈空間や留置品と共に成長する深
淵〉を参照)これに対しては、当事者相互が
連絡〜会議をおこなう条件がない(概念集4
の〈当事者〉を参照)ために対処が困難で
あったが、x―前記の通知がこれまでの(持
続中の裁判過程を含む)追求テーマを圧殺
する、y―任意の人が物品を既成の関係〜感
覚を越えて応用しうるならば松下へ連格し
て受け取ることは自由、z―前期(2)の詳
訟費用や次記(4)の証拠としての物品の位置に留
意せよ、という指摘を文書でおこない、多く
の共闘者の力に支えられて、物品の主要な
ものを移動〜応用しつつ、同時に地下倉庫空
間の占拠も持続しえている。
(4)86年3月24日に大阪高裁法廷で生じ
た事件(批評集α篇参照)の展開に関連するテーマ
は{三・二四}証言集の他に概念集でも何度
か取り上げてきているが(2の〈瞬間〉、
3の〈発生の時間域〉、7の〈裁判所は裁判
所(職員の偽証)を裁けるか〉など参照)
92年3月31日の控訴棄却判決後の上告過
程においては、法的な披告人と弁護人のみが最
高裁への意思表示・審理に関する打ち合わせ
を認められるので、二審までのような関わ
り方は殆ど不可能になった。松下は卵裁判や
神戸大学闘争の上告段階の国選弁護人であ
った小野弁護士に6月始めに、この事件につ
いても国選弁護人になってもらえないか、
と提起をおこなったが、直後に人院せざるを
えなくなったので、提起の持続は困難とな
った。この事件では松下が、これまでと異な
り法的被告人ではなく、届けられた資料か
ら法的専門家の枠を突破する事件であること
も判っていたために、予測した通り小野弁
護士は受任には消極的であった。それでも、
松下の手術段階の切迫と情況的意味を踏ま
えた仮装被告団の提起の迫力にかれも遂に承
知し、かれを媒介して最高裁や法的被告人
(根本氏)の動きも判るようになった。上告
趣意書の提出期限が被告人については(偶
然にも〉手術当日の7月10日であったが、
直前の弁護人選任という経過の波及効果のた
めに延期されたこと、延期期間に被告人や弁
護人の上告趣意書提出過程への仮装被告団
の参加が(93年2月15日まで)可能に
なったことは大きい成果である。
(5)松下の入院の時期は、71年に東京理科大が解雇した宮内氏の入院の時期と重なり、いず
れも死の危険を背負っている気配を相互に感
じていた。しかし、松下は生き延び、宮内
氏は〈新しい医療のヴィジョン〉の項に記し
たように死去された。89年12月の菅谷規矩
雄の死去と共に、大学闘争を潜った人の死は
私たちの引き継ぎ、深化〜応用していくべ
き任務を無言のうちに提出している。なお、
92年12月14日に東京で宮内氏の追悼集会を
予定しているので、読者諸氏の参加を期待す
る。これは死を自明の過去形として扱う葬
儀の方向性とは逆に、前記の菅谷氏や宮内氏
を含む大学闘争を潜った人々が未来形で示
唆している問題は何か、どのように取り組む
かを討論していく場である。
(6)その他いくつかの重要な経過やテーマがあり、前記の各項のものと同様にそれぞれ現在
も進行中であるが、ここには一々記さず、必
要に応じて、また、質問に応じて開示して
いく。
あとがき
概念集シリーズの成立要因の一つに、建築用語集を作成する作業への参加があったこと
は1の序文に記したが、1〜7の方向性とは異
質な構成と内容を持つ8が出現する重要な
要因として入院過程があることは勿論である。
しかし逆に入院過程と交差したからこの8
が可能になったとかテーマが拡がった、とはい
えないと考えている。7までの必然が不定
形として8の根拠に潜在〜集積しており、いま
8の形態をとっている表現は入院以外のど
のような契機を媒介しても〈同じ〉展開を示し
うるはずだ、という思いがある。それを踏
まえた上で次のようにいいたい。
7以後の時期に医療空間と交差したことは、
任意の他の空間への交差の仕方を深め、応
用するという視点からは非常に適切であり祝福
でさえあった。私は転んでもただでは起き
ない人間だが、今回は私を超える何かの力が私
のために入院という契機を与えてくれたの
だと感謝している。とくに監獄や宇宙や身体の
テーマを69年の闘争との関連においてだれ
もが自在に往還することが世界を変えていく条
件の軸である以上、私たちは例えば〈全共
闘〉と〈全身麻酔〉、〈内科・外科〉と〈民
事・刑事〉、監獄や学校や病院の〈トイレ〉
と〈メニュー〉を同時に〈同じ〉言葉で論じな
ければならないだろう。このような概念の
対的連関によって未踏の領域のかなりを包囲〜
占拠しうることを8の作業で確信したが、
ここではその中から7までの必然と対応する項
目を選んで提出してみる。
先程、入院以外のどのような契機を媒介して
も、とのべたが、表現の姿勢ないし条件と
して7以後に予感していたのは、例えば、白い
紙(ないし技術を必要とする機器)を前に
して何かを表現しようと身構える態度は69年
以降は無効であるが、現段階において二乗的
に無効ではないか、ということであった。これ
は別にペン(ないし任意の表現手段)を捨
てて実践を、という古めかしい発想とは無縁で
ある。むしろ、筆記用具(ないし表現手段
の全て)が無効な状態(広い意味での〈労働〉
中―潜水中、墜落中、睡眠中などを含む。
―)での表現行為の困難さが表現の内容や方法
に及ぼす作用と反作用を把握しようとして
いた、という方がヴィジョンとして正確であ
る。なぜこのような予感を抱いたかについて
は今後の作業でより具体的に表現していく(あ
るいは意味自体を黙って生きる)であろう
が、8においても基礎は提出し始めているつも
りである。そして、8の試みによって、こ
れまでの表現過程から少しでも踏み出している
こと、その結果として〈医療〉の領域の概
念や関係をもわずかにではあれ転倒し始めてい
ることに読者諸氏が同意しつつ、今後の作
業への示唆を与えて下されば、大変うれしい。
〜一九九二年十一月〜 刊行委員会 気
付 松下 昇
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しての医
療空間
- 医
療方法と
身体感覚
- 病院と
他の空間
の比較
-
チューブ状
の身体
- 手術=
さめたあ
との夢
- 〈わる
いもの〉
概念の変換
- 老人医
療への救
急医療
-
排泄処理
概念集・8 (後半)
- 食事メニュー
- メデュトピア
- 屋上からの光景
- 一人は万人のために、万
人は一人のために
- 入院中の各テーマの展開
- あとがき