奇妙な論理 ーー擬似科学批判の批判ーー

見過ごせぬ”疑似科学”出版
 この項目を書く根拠は深く、例えば概 念集1の〈科学〉や2の〈技術〉以来であり、これらに匹敵する指摘は、概念集の包括性に対応するレベルにおいては、まだどこにも出現していないし、個別の 指摘として取り出した場合にも、それを理解し実践しうる人々は当分は例外的な少数者にとどまるのも確実であるが、このような現状を突破する試みの過程で必 要な指摘は何度も展開しなければならない、と考えてきた。その過程で、このページ右に掲載した記事に出会ったことが、この項目を書く契機である。
 この記事の筆者自身がどういう仕事をしているかは知らない。会ってみれば、いろいろと示唆を与えてくれる好人物なのかも知れないが、ここでは国立大学で 教育と研究に従事し、自分の苛立ちをマスコミに発表できる体制的知識人の一人として扱っておこう。

 論点の限界は、次のように取り出すことができる。
(1)「疑似」科学と「真正」科学を区分する基準が明記されていない。
(2)出版のレベルでの危惧を前面に出しているために、テーマを縮小させてしまっている。
(3)かれのいう「疑似」性が他の分野や情況とどのように関連するかが自覚されていない。


 これだけでも充分なのであるが、この文章をマスコミに登場させる背景の構造に射程を伸ばして批判を続けてみる。前述の番号に対応して論じてみよう。

 (1)に続けてのべると、筆者は「疑似」科学の例として、アインシュタインの相対性理論を批判する論文しか挙げていないが、例えばヴィルヘルム・ライヒ のオルゴン(生物エネルギーのリビドー的実体)理論と集積装置をどのように評価するのであろうか。30年代の共産党や国際精神分析学会による除名や50年 代のアメリカ国家による投獄〜獄死を認めるのかどうか聞きたい。認めるというのであれば、私たちは筆者や筆者を利用する既成秩序と闘い、打倒していく他な い。もし認めないというのであれば、筆者は「疑似」科学者の中にありうる無数の無名の〈ライヒ〉の存在も認めるべきではないか。そして、かりに、それらの 人々の論文の中に、既成の認識からは明確に誤りと判断せざるを得ない記述がある としても、あくまでへ      であることに謙虚であるべきではないか。筆者 は、2たす2が正しいのに、2たす2は5であると主張するのと同じであるとして「疑似」科学論文を非難しているが、すでにドストエフスキーが「地下生活 者」の主人公にいわせているように、「自然の法則とは自分が望もうと望むまいと2かける2は4になるというに過ぎず、2かける2が5であっても構わない」 のである。この主張をそのまま科学に対置することはできないとしても、少なくとも、この主人公の存在自体をも納得させ変革しうる「法則」は既成の科学から は提出されていないし、未来的な〈科学〉は、ある条件においては2かける2を5とするにちがいない。筆者のいう「実験によって余すところなく正しさが確か められている既存の理論」なるものもその実験をなしうる装置を「疑似」理論の提出者や関心をもつ全ての人々に自由に使用させた後でない限り、まだ存在して いないのは自明ではないか。
相似象会誌 奥付
 (2) 筆者は、「専門家がきちんと書いた科学解説書の横に、これをウソだ間連いだと決めつける本(こちらの方が立派に見える)が並ぶ事態に黙っておれなくなった のである」と「ら」抜きで当世風に?文章をしめくくっているが、なぜ、そんなに本のことが気になるのか。よほど自分の本の売行きの悪さにショックを受けて いるのであろうか。それとも、大新聞の科学欄の記者が、自分の紙面よりも衝撃的な本が続出している事態に自信を失っているのに共感し(あるいは煽動され て)書いているのであろうか。その他にも理由がありうるとして、いずれにしても下らないなあ、と思わざるをえない。マルクスではないが〈無知が栄えたため しはない〉のである。ただし、どちらが無知であるかは充分に議論の余地があるし、私たちは、その議論にいつでも参加する。その企画がなければ、自主的にお こなう。そもそも、前記の文章の筆者のいう「疑似」科学理論の提出者は、筆者のように現在の支配的文明の秩序から生活や研究手段を保証されないまま、独力 で研究を続け、その成果を筆者の安住する圏内の人々に提示したにもかかわらず無視されたために、やむを得ず出版したというケースが多いのではないか。しか も、出版される例は氷山の一角に過ぎない。また、本当に根源的に既成の科学や文明を乗り越えていこうとする人々は、むしろ、既成の出版レベルを避けて着実 に成果を挙げていることも知っておいた方がいい。私のパンフレット刊行の試みは勿論そうであるが、他の例の一つをこのページ右に紹介しておく。詳しい内容 を知りたい読者には資料を回覧する用意がある。


 (3)「疑似」性への苛立ちは、前記の文章の筆者が予測するよりも、はるかに深い情況性から発生しており、たんに「自然科学」の分野にとどまらず、全て の 分野に共通している。私の体験してきた過程から指摘すれば、裁判所では、専門の弁護士に依頼せずに訴訟行為をする人は「やから」(法的に公認されていな い、擬似的な連中、という意味?)という分類を受けて、まともな審理対象から、あらかじめ排除されている。裁判に自分でかかわる例は少ないとしても、医療 の分野での専門家たちの権力性や、非専門家である大衆や「疑似」医療方法への蔑視は、だれもが実感しているであろう。一方、この社会を変革しようとする政 治党派も、自分の党派以外は「擬似的」な党派とみなし、利用できる時以外は排除してくる。前記の文章の筆者には荷が重すぎるであろうが、「疑似性」を論じ るには、少なくとも、このレベルでの苦痛と闘っている者があるという想像力をもつことが第一の条件である。第二の条件として、現在のところ公認されている 「真正の」科学の方法が全ての分野で厳密に適用されていない現状を、どのように突破していくかを具体的に示すことである。例として、原発の危険性に関す る、既成の科学の方法の良心的応用としての、ムラサキツユクサを用いた実験に対する支配秩序の科学者やマスコミの反応を次のページ右に掲載しておく。第三 の条件として、現在のところ公認されている「真正の」科学が、複(素)数的な選択肢の中で今のところ主流であるに過ぎないことを(できれば、概念集の〈科 学〉論、〈技術〉論を生かして)認識することである。これら三つの条件をくぐりなおすまでは、筆者の論理こそが〈奇妙な論理〉なのである。
 「ムラサキツユクサ実験否 定」批判 市川定夫
註1ーつい でに、筆者が自分の文章に権威づけをするために?言及しているM・ガードナー「奇妙な論理」を探して読んでみたので簡単に批評しておく。一九五二年に出さ れた本の原題は「科学の名において」であり、原爆によって第二次世界大戦を終了させたという自信にあふれたアメリカの支配的イデオロギ〜の流れに乗って書 かれており、到底いまの情況で読むに値しない。菜食主義、有機農業、自然医療も完全に否定されている。しかも実証的な手続きなしに。まして、文明論的な視 点の導入なしに。私が、この本を読む前に言及したライヒ(原著刊行の段階には、活発に活動していた。)についても嘲笑的に否定している。ガードナーや、か れの著書に依拠する者たちの位置と役割は明白であり、打倒〜解体の対象である。

 2ー現在のところ公認されている「真正の」科学の方法が全ての分野で厳密に適用されていない現状、という場合、「真正の」科学の方法は自明の正しさを もっているが、それを用いる政治情況がまちがっている、といっているのではない。厳密に適用していくことや、させていくことは政治情況としても必要である が、「真正の」科学は常に正しく中立であるという確信こそが、科学者の頽廃を深め、社会総体を回復の可能性が殆どない程の方向へ導いてきたのである。この 傾向は自然科学の分野で最も著しく、あらためて批判を持続していくが、ここでは他の分野でも同様な批判が不可欠であることをまず指摘する。概念集の中の特 に裁判に関する批判的記述で示したように、裁判官は自分に対す&忌避の申し立てを自分で却下する。当事者は公平な審理をすることができない、という原則を 平然と踏みにじり、それが制度的に認められ、奨励されている事実は何度でも強調したい。しかし、これは原則からの逸脱というよりも、現在までの法の自己防 衛の衝動として法に内在していると把握した方が正確であり、従って、忌避に限らず、全ての申し立てについて、法律に基づいて公平に審理してほしいとか、す べきである、と主張すること自体が、既成の法秩序に従属してしまう結果を招く。戦術的に応用する場合は別として、訴訟行為による闘争は、既成の裁判制度の 総体を、全ての既成の制度との関連において転倒していく戦略の中でのみ意味をもっている。

 3-では、私たちが実現すべき〈真正の〉科学や文明は何であろうか。この問いに確定的に答えることは困難であるし、確定的に答えることは今は不要であ る。しかし、先述の三条件をくぐり、再構成しうるような試みは全て基本的には、この問いに対する答えの方向を示唆しているのは確かである。次のハインリ ヒ・ハイネの表現はこの方向を進もうとする私たちを、あらためて励ましてくれている。
 ハイネは、過渡期における主体性が、後進ドイツにおいて、どの方向へ形象面での突破を可能にするかということについて、後にこうかいている。
 「しかし、新しい時代は新しい芸術を生むであろう。その芸術は新しい時代に感激的に共鳴し、色あせた過去から借りる必要もなく、今までの技法とは異なっ た新しい技法を創造さえもするであろう。その時までは、自分に酔いしれた主観性、世界の中にたずなを放たれた個性、神の如く自由な人格は、全ての生の悦び をもって音と色で思うがままにふるまうが よい。それでもとにかく、古い芸術の死んだ偽物よりは役に立つ。」(「ハイネ「北海」における詩と散文の相関性(松下昇)」神戸大学文学会「研究」三二号  一九六四年二月刊) 
(これは1830年代のフランスの絵画論の一節であるが、その時代的、ジャンル的制約を超えて、かれのいう〈芸術〉を語源的にも〈技術〉を含む〈科学〉論 に応用したい。)
     (p28-30 概念集・9 〜1993・11〜 から) 

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