徳島大学闘争 とは?

徳島大学闘争 というものがあった。 その中心人物だった山本光代さんは、一昨年なくなってしまった。
残されたものは少ないが、ないわけではない。ただそれを知りたいと思う人がたぶんいないだけだ。
今回、5月3日の会通信の 「 」号の、p37から45の9枚をjpg化したので、ここにHP化しておきたい。

さて、1971.6.30に山本さんは大学評議会から懲戒の審査説明書が交付された。その後の経緯を、資料1から10で辿っているのが、この文章である。
その内容をごく簡単に読み取ろうとしてみたい。

資料の1は、山本光代からの陳述請求である、71.7.14。
懲戒処分については、教育公務員特例法4条の3に「口頭又は書面で陳述する機会を与えなければならない」という定めがある。それににより口頭および書面による陳述を求めている。 参考人を要請する、また関係資料を追って提出するとも、記されてある。 請求者は「徳島市○○ 長谷川正治気付 山本光代」である。これに対し、約30人がそれぞれの住所氏名気付の文書が提出された。
事件というのは法的に構成されるためには、まずAならAという個人の特定がなされなければならない。しかし集団で何か(示威行動?)をしたとかいう場合、数十名のそれぞれが一定の役割を果たしつつ効果を生み出しているわけで、Aという個人の特定は困難である。「○○気付 山本」という表記が法的に意味があるかどうか、送達先という意味では意味はあるだろう。個人と集団、(別の例では、被告とその隣人)との存在論的落差というものが、〈 〉闘争ともいわれるこれら(松下〜山本)の運動特徴だった。それをなんとか法的言語にしようという試みが、この「○○気付 山本」という数十枚の紙片だったわけだろう。

資料の2は、徳島大学評議会から山本光代宛、陳述は口頭か書面かのいずれかを選んで請求してください。としている、71.7.17。
資料の3は、「資料の2」を京都市左京区石田方へ送付したが、「了知されていないと思われますので、今回に限り再度通知するものです」としての通知である、71.7.26」。「陳述に必要な記録その他関係資料は、7月31日までに提出してください。」とある。
資料の4は、資料の3でもって、7.26付通知したが、「まだ提出されておりません」。「よって、71.9.25までに別紙陳述請求書および参考人要請書を徳島大学長あて提出するように再度通知します。」とする。

資料の5は、山本光代から徳島大学評議会宛である。「本日の時点において、私の陳述の権利は、〈存在〉しているのか、いないのか。御回答ください。71.9.29」としている。これも約30人のそれぞれの住所氏名気付の文書が提出された。

いつのまにか、「陳述を放棄したものとみなします。」ということになったようだ。

71.11.1には4つの文書がでる。
資料の6:徳島大学評議会から、山本光代、「71.10.30懲戒処分として停職6ヶ月とすることを相当と認めた」。
資料の7はその説明:「いくたびとなく同人に陳述の機会を与えたにもかかわらず」「その後、評議会からの通知等は一切受け取ろうとせず、いたずらに評議会に対し、釈明など自己の要求を繰り返すのみで」 「本評議会としては、同人の陳述請求の意志を認め、再三陳述の機会を与えてきたのであるが、最後までこれに応じようとしなかった」「特に、10.19の口頭陳述の出頭時刻に、同人はこれを了知していたにもかかわらず、所定の場所に出頭せず」

資料の8:徳島大学長 北村義男から、山本光代、「懲戒処分として六月間停職する。国家公務員法第82条第1号、2号および3号の規定により」。
資料の9:山本の「69.5.30から70.6.16までの間における行為が、本学医学部および教養部の教育の機能を阻害し、本学の管理機関の命令に違背し、あるいはその公務執行を妨害するなど、国家公務員法に違反することによるもの」として「やむなく懲戒処分を行なうに至った」。

資料の10:資料の1で「〈私〉の陳述についての詳細打合せのため当方の返事を受ける場所も指定致しておきましたにもかかわらず、ご連絡はいただけず」 「当方よりの催促にも応答なきまま今日も尚待ち続けている次第」
陳述の機会を与えていない以上、処分はできないはずだ、と主張。

双方の主張は、その中身まで入ることなく、「陳述の機会」の日時・場所の設定の合意ができないという段階でとどまったまま、当局の判断で「時間切れ」になった。
資料の9で、当局がいう「大学教育の機能を阻害し」云々のいわゆる「大学紛争」は、山本個人ではなく学生大衆との共闘関係において成立した活動である。そして資料1および5を発送した文書に記されたそれぞれの住所氏名を記した約30人が、そうした活動の参加者であり、じじつがどうであったか、その評価についても証言できる立場であった(だろう)。したがってそうした共闘者をまきこもうとした戦術は、引き伸ばしのための小手先の技などではなく、「大学紛争」の本質を解明するため必要なものであったと判断できると思った。

              2019.4.4 文責:野原燐