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概念の欠如が引き寄せる言葉(序文の位相で)

概念の欠如が引き寄せる言葉(序文の位相で)

概念の欠如が引き寄せる言葉(序文の位相で)


 ゲーテの「ファウスト」第一部で、メフィストフェレスが次のようにいう。

「概念が欠けている正にその場所に、言葉が丁度よい時に姿を現わす。論争も体系の構築も信仰も、言葉があるからこそ可能なのだ。…このような役割の言葉からは、表現された形態の微小な部分でさえも変更することはできない。」

 この箇所は、前から気になっていた。さまざまの人がこの箇所を論じているが、どの翻訳や解釈にも納得しがたいので、あらためて原文で確認し、試訳してみた。久し振りにこのような作業をする気になった理由は、納得しがたさからというよりは、私たちの情況にとって、生きていくのに不可欠な概念が欠けて久しいのに、概念ないし、その欠如を指し示す言葉はなかなか現われず、いくらか姿を見せても、不安定にゆらめいたり、消滅したりする場合が殆どである事態への関心からであろう。

 前記の言葉を引用する人々は、無意識のうちに、これをゲーテ自身の考えとして把握しつつ規範的に理解している。しかし、前記の言葉は、あくまでもゲーテの作品の登場人物の言葉であり、前後関係からは、ファウストに仮装したメフィストフェレスが、学生に神学を研究する心構えについて教える際に、学生の未熟さを挑発し、かつ神学への皮肉をこめて発語しているのであり、従ってファウストの言葉ではないし、ましてゲーテ自身の言葉ではない。それ以前の書斎の場面で、あらゆる学問に失望したファウストは、自分に光を与えてくれそうな本としての聖書を開き、冒頭の「はじめに言葉ありき。」について、「おれは言葉をそれほど尊重する気になれない。」とつぶやき、はじめにあったのは言葉(Wort)ではなく別のものではないかと考えはじめ、感覚(Sinn 意図、意味という訳もあるけれども、あえて、こうしてみる。)だろうか、いや力(Kraft)だろうか、と思案した末に、行為(Tat)がはじめにあったとすればよい、と結論する。この結論自体は作品の序の部分の言葉であり、作品全体を媒介するゲーテの考えとはいえないとしても、前記のメフストフェレスの言葉がゲーテの考えとは遠いことの例証にはなるであろう。

 とはいえ、メフィストフェレスの言葉には、簡単には破棄しがたい重要な意味がこめられている。かれのいい方を契機として、ファウストの言葉を次のように言い換えてみたい。

 把握すべき本質に、必ず言葉が対応するとは限らず、むしろ逆の場合を基本として想定した方がよい。そして、ある場、ある瞬間に、必要な対応する言葉が欠如しているにもかかわらず、時間と格闘しつつ表現を含む行為を強いる力は避けがたい感覚で迫ってくるけれども、この具体化を、自他の存在条件を変換しつつ行えば、はじめて言葉に生命をもたらしうる。

 この方向において、ゲーテの作品の登場人物を媒介するゲーテ自身の模索を、私たちの概念の欠損情況ないし概念(集)に関する作業へ困難を強いる情況へ生かしていきたい。

註一…ファウスト伝説は、本来、十六世紀前半のドイツを中心に流浪した、非ないし反ヨーロッパ的な実在の人物に根拠をもっており(これを神と悪魔の、前者の勝ちを自明とする賭の素材として扱うキリスト教的発想に対しては、旧約のヨブ記におけるユダヤ教的発想に対してと同様に、無性に怒りを感じる。これについては、別の機会に論じる。)、ゲーテの他にもレッシングハイネトーマス・マンなどが作品化を試みている。それぞれに特性と面白さはあるが、現代的には手塚治虫が死の直前(一九八八年)に劇画化した「ネオ・ファウスト」が示唆を与える。七十才の老人ファウストと、悪魔との契約により若返った青年ファウストの共通の背景に七十年前後の大学闘争を置き、メフィストフェレスを女性として描くユニークな作品である。しかし、第二部のはじめで死によって中断されたのは残念である。残念といえば、ないものねだりになるけれども、手塚は、大学闘争を政治的街頭闘争の前段階のゲバルト的風俗としてのみ取り上げ、どの情景の、どの断片からもファウスト的テーマを引き出しうることに気付いていない。しかし、かすかに気付いている私たちが、まだ作品としては一行も表現しえていない現実をこそ痛苦をもってみつめねばならないのであろう。

二…ゲーテの表現を読み返している過程で注目したのであるが、かれは晩年に友人にあてた書簡で、「動物は器官によって教えられるが、人間はそれだけでなく逆に器官を教え返す存在である。」とのべている。この言説に引き付けられるのは、私たちが、〈器官なき身体〉と〈身体なき器官〉に包囲されつつ苦闘してきたからであることに気付いているが、この項目に交差させて今後の追求方向をのべると、一つは、器官を概念に、身体を言葉に対応させつつ、双方のズレの現象の根拠を探ることであり、もう一つは、八九年末以降の東ヨーロッパの激動とみえる状態に直ちに概念を対置させず(バロック概念や、ポスト・モダニズム概念との対比で論じたい衝動はあるし、意味もないとはいえないが)、むしろ私たちが、三分の一世紀前から、概念としては、現在の社会主義国家群の解体を(勿論、資本主義国家群の解体と同時に)スローガンとして前提してきたにもかかわらず、具体的展開の急速な(しかし別の面で驚くほど緩慢な)様相を予測しえなかった意味を、さまざまなレベルの同位相のテーマとの関連において実践的にとらえかえすことである。

(『概念集・3』p1-2)